金沢法難とは

 金沢法難とは、江戸時代中期の享保8年(1723)から、江戸幕府崩壊までの約100年間の長きに亘り、金沢において大石寺信仰が禁止・迫害された法難をいいます。

 

 金沢の地に日蓮大聖人の正しい信仰(大石寺信仰)が芽吹いたのは、加賀藩第5代藩主・前田綱紀公の縁によります。当時江戸にあった加賀藩上屋敷の近くに大石寺の末寺である常在寺がありました。綱紀公があるとき、常在寺で大石寺第17世日精上人の説法を聞き、その説法に深く感銘を受けます。綱紀自身は立場上、公(おおやけ)に改宗・入信することはできなかったようですが、側近の者たちに対して、常在寺へ行って仏法を聴聞するようさかんに勧めたといいます。その結果、江戸屋敷在住の者はもとより、国許に戻った武士たちによって、加賀の地に大石寺信仰が次第に広まっていきました。宝永元年(1704)に大石寺に建立された六万塔の記録を見ると、当時すでに、金沢(加州)の信徒組織は、江戸や京都と比肩するほど成長していたようです。

 

 ところが、六万塔建立から約20年後の享保8年、第6代藩主・吉徳の時代になると、加賀における法難の兆しがみえはじめました。きっかけは、藩の指南番が大石寺信仰に改宗したことが表沙汰となり、「大石寺とは、どのような宗派であるか」との説明を求められた日蓮宗身延派の僧が、悪意の中傷(幕府御禁制の不受不施派の人々が、大石寺信仰を隠れ蓑にしているとの虚偽の説明)を行なったのです。

 さらに享保11年には、加賀藩内の日蓮宗八品派の僧が大石寺信仰へと改宗し、大きな波紋を呼びました。なぜなら当時、出家僧が改宗することがほとんどなかったからです。

 これを機に、享保11年12月、加賀藩において大石寺信仰は禁止されることになりました。大石寺ではそれ以降、加賀藩に働きかけを行ない、「大石寺信仰禁止の解除」と、「加賀藩内に大石寺の末寺の建立」を、藩主が変わる度に願い出ましたが、一向に認可されることはありませんでした。

 大石寺信仰禁止の触れは、享保11年・元文5年(1740)・寛保2年(1742)・明和7年(1770)と四度に及び、一時期は多くの退転者を出すに至りました。なかでも寛保2年にはじまった弾圧は厳しく、多くの信徒が閉戸・入牢等の処罰を受け牢死する人まで出てしまいました。このような大事に対し、大石寺第31世日因上人は、

「無疑曰信に南無妙法蓮華経と唱へ奉る事尤も大切なり。又臨終の事は平生忘るべからず。別して一結講中異体同心未来までも相離れ申すまじく候。中に於て一人地獄に落入り候はば講中寄合て救い取るべし。一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし。其の後、北国中の同行乃至日本国一閻浮提の一切衆生をも救い取るべく申し候。衆生無辺誓願度と申すはこれなり」

との有名な「十箇条法門」を示されています。

 

 弾圧は明和年間にふたたび激しさを増します。西田丈右衛門という信徒は閉戸の刑に処せられたまま死去し、家は断絶となりました。また竹内八右衛門は三度の追込み刑(自宅などの一室に幽閉される刑)に処せられ、牢死しています。

 そうした熾烈な法難が続く弾圧下にあって、金沢信徒は一致団結し、正法への信仰を守り続けます。とくに厳しく禁止されていた折伏を実践し、法華講衆は、寛政2年頃には1万2千にも達するほどで、水面下とはいえ、いかに活発な信仰活動を行なっていたか、その一旦を伺い知ることができます。

 一方、地団駄を踏む藩は、なんとかして信徒をあぶり出そうと画策し、法華講の中心者の一人・中村小兵衛を捕縛して拷問にかけました。しかし、中村小兵衛は最後まで口を割ることなく、藩は何も得ることができないまま、仕方なく取り調べを諦める、といった事件まで発生したのです。

 時代が下り、天保10年(1839)、加賀藩の支藩である加賀大聖寺前田藩の藩主夫人・勇姫が、側人であった老婦人の折伏によって大石寺信仰に入信しています。『金沢法難』といえば「抜け参り」が有名ですが、この「抜け参り」は、弾圧の緩んだこの頃に行われたようです。「抜け参り」とは、加賀から江戸にいたる参勤交代の道中、一行が寝静まった夜中に宿舎を抜け出し、大石寺まで走って参詣し、夜明けまでに再び参勤交代の列に戻って、何事も無かったかのごとく振る舞うといった、命がけの登山参詣をいいます。

 

 金沢法難は結局、江戸幕府崩壊まで続きましたが、弾圧下にもかかわらず多くの強信徒を輩出し、特筆すべきは金沢法華講衆の中から、大石寺第37世日琫上人・47世日珠上人が御登座されている、ということです。また現在わかっているだけでも、金沢信徒に下付された御本尊は350幅以上、御歴代上人によるお手紙は100通以上にも及ぶとされています。

 

 時代は明治の代に変わってからも、新政府はしばらくの間、新寺建立を禁止しました。よって大石寺では、近郊にあった妙喜寺という寺を金沢に移転・復興させるとの名目で、金沢の地に初の大石寺末寺を建立しました。ここに、金沢法華講衆の積年の願いであった菩提寺建立がようやく叶いました。明治12年のことです。

 日蓮正宗妙喜寺は現在でも金沢の地に深く根付き、ご住職と異体同心した法華講衆が日々に自行化他の信心を実践し、広布に向かって精進しています。

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

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