平成二十七年三月十七日

総本山法話 ②

 

「知恩報恩の折伏」

 妙通寺 細 井 道 迅


 皆さんこんにちは。本日は、総本山へのご登山、まことにご苦労様です。命により少々、お話を申し上げます。

 去る三月六日・七日の両日にわたり、御法主日如上人猊下大導師のもと、第二祖日興上人ご生誕七七〇年を奉祝する大法要が、ここ総本山において盛大に奉修されました。私たち日蓮正宗僧俗は、平成二十一年の七万五千名大結集総会以来、七年間、この佳節に向かい、法華講員五十%増の御命題を達成するため、心を合わせて唱題し、励んでまいりました。

 

その結果、見事に御命題を達成し、日興上人へのご報恩にお供え申し上げることができたわけでございます。
 その大法要の砌、御法主上人は、これまでの僧俗による死身弘法の奉公への称賛をいただく一方、次のように仰せになりました。


 「次の目標たる平成三十三年・宗祖日蓮大聖人ご聖誕八〇〇年、法華講員八十万人体勢構築へ向かって、異体同心・一致団結して、なお一層の御精進を心から願」うと。このような御指南です。
 法華講各支部においては、ご住職と互いの健闘をたたえ合い、誓願達成の感激に浸っておられることと思いますが、すでに私たちの信心は、次の御命題達成に向けて出発せねばなりません。
 そこで、これからの七年間にわたる私たちの信心について、今一度、その原点を再確認し、今日は特に「報恩」ということについてお話したいと思います。


 まずはじめに、日蓮大聖人は『四恩抄』に
 「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(御書二六七」)
と仰せです。
 私たちが今、信心をするということ。これはもちろん、我々自身が充実した幸せな一生を過ごし、また寿命が尽きた後にも、きちんと成仏していくためであります。しかるに、そうした信心・修行を行なっていくうえにあって、まず第一に心すべきことは、人間として、他から頂く恩というものに対し、必ず恩返しを行なっていくということ。これが、世間的には、もちろん、特に我々信心をする者にとって心すべき生き様であると、このように示されているものです。


 ここで「恩」ということについては、いろいろな姿がありますが、日蓮大聖人は、大きく四つに分けて説明されています。すなわち、「一切衆生の恩」「父母の恩」「国王の恩」、そして「三宝の恩」の四つです。


 はじめに「一切衆生の恩」、そしてもう一つの「国王の恩」について言いますと、人は誰でも一人で生きていけるものではなく、世の中の人々の協力や助力が必要不可欠です。またあるいは、日本という安定した国家のもとで、宗教の自由が認められ、法の統制、自由・平等が保証されるという環境にあるからこそ、私たちは、信仰活動、仕事、学校での勉強、家庭生活。そういうものに自由に取り組んでいくことができるわけです。
 バスに乗るにしても、「お金を払っているんだから、乗って当たり前」なのではなく、やはり運転手さんが、朝早くから時間を守り、安全運転してくれる。世の中で交通ルールが守られ、信号が作動し、交通がスムースに流れている。そういった、いろんな人の働き・助けがあって、私たちはこうして総本山へも時間通りに、安心して登山できる訳です。そういった世の中の人、国の働き、あらゆるものに対して、いつも感謝の心を持って接し、その恩恵には、何らかの形で応えていく。恩返ししていくということを、忘れてはなりません。


 さらに大聖人は一歩進んで、一切衆生がいるから、我々も真剣に、そういう方々の折伏を祈り、実際に折伏して功徳を積んでいくことができるんだと。時に、信心を邪魔するような人もいるけれども、それによって我々は一層、唱題に励むこともできる。だから、魔の働きさえも、ひとつの恩として感謝し、生きていくべきであると、徹底した「報恩の心」を大聖人は教えられておりまして、我々はいつでも、どこででも、世界中の人々、あらゆる自然の営み、そういった一切の恩を感じ、その恩恵に報いていくことを、忘れてはならないわけです。これがまず第一。


 次に大事な恩は、この世に生を受け、これまで生きてくることができた。それにはまず、産んでもらわなければ話になりません。プロ野球選手が、何かの記録を出したりしますと、まず「丈夫な体に産んでくれた両親に、感謝します」とインタビューで答える場面をよく目に致しますが、やはり、この世に産んでいただいて、そして一生懸命、育ててくれた親の恩を忘れない。やがて自分が一人前になった暁には、必ずその恩に報いていくこと。これがまた、人間として大事な姿であると示されています。
 こうした「親への恩返し」について、具体的に考えてみますと、日蓮大聖人は、下品・中品・上品の三つの恩返し。孝養があると教えられています。
 第一の恩返しは、親が欲しがる物を与える。これが恩返しの始まりだといいます。しかし、プレゼントしても、その時は喜んでもらえるでしょうが、その喜びが永遠に続くわけではなく、物にはおのずと限界があります。そこで、もう少し、恩返しを深く掘り下げて考えてみるに、親の言うことを良く聞くということ。それがまた、親孝行、恩返しになるんだというのです。しかしこれについても、親も人間ですから、親の言うことが、必ずしも、いつも正しいとは言えません。
 そこで、最高の恩返しは、我々自身がしっかりと信心をして、そして功徳を積み重ね、人々の役に立つ仕事につき、一人前の社会人として立派に生き抜いていくということ。さらに進んで、信心の功徳を自分だけに留めず、大切な親へと追善回向していく。これが最高の親孝行であると大聖人は教えられているのです。
 ご両親が既に亡くなっているのであれば、まず勤行において、自分でしっかりと回向していく。これが何よりも大事な両親への報恩行となります。また、命日とか、間もなくやってくるお彼岸、夏のお盆、お正月など、折にふれて菩提寺に参詣し、塔婆供養をしていただく、これが、亡くなった御両親への、無上の追善となることは言うまでもありません。
 また、幸いにも御両親、もしくは一方でも健在であるならば、やはり、お子さんである皆さんがしっかり信心し、唱題し折伏し、このように登山して、確実に功徳を積む修行を行なっていく。
 自他ともに、みんなで成仏し、幸せになっていくのが大聖人様の信心でありますから、我々がまず両親と心を合わせて信心し、功徳を積み重ねることにより、元気で、明るく、楽しく、人生を謳歌していくことが、真実・最高の親孝行、親への報恩行となっていくものであります。
 さて、親の恩に続き日蓮大聖人は、我々仏道修行者にとって、もっとも大切な、三宝の恩について示されています。
 三宝とは、皆さんご存知のとおり、「仏宝の恩」「法宝の恩」、そして「僧宝の恩」の三つをいいます。
 三宝のうちの、まず仏という宝。とくに今、末法は、インドに出現した釈尊は、その威力を失ない、我々のような凡夫は、その教法によって成仏していくことは不可能とされています。
 そこで末法の衆生は、法華経の上行菩薩の再誕であり、内証久遠元初のご本仏・日蓮大聖人を有縁の仏として仰ぎ、大聖人の教えによって、成仏していくべきであると知るのが、一代仏教の一番の元意となります。
 大聖人は時の権力者による迫害にもめげず、我々一切衆生を救済したいという大慈悲心により、ご自身の身命をかけて南無妙法蓮華経の法を説き出だされました。ですから、我々はまず、他の仏菩薩に心移りすることなく、日蓮大聖人を常に仏の宝として崇め、その御恩徳に対して、感謝申し上げていかねばなりません。


次に大聖人が御書に
 「法の恩を申さば法は諸仏の師なり。諸仏の貴き事は法に依る」
                          (御書二六八)
と仰せのとおり、仏道修行を行なうについても、まず、そこに教えがあって、はじめてその修行が成り立つんだということで、その大元の教え、それを法の宝、法宝として、やはり大切に崇めていかなければならないことを示されています。特に、末法の法華経における法の宝は、南無妙法蓮華経の大曼荼羅御本尊です。この御本尊が根本となって、そこから、三世十方の諸仏も、所説の法も、また功徳も生まれてくるわけですから、仏様の恩もさることながら、我々は法の宝としての御本尊への感謝の心を忘れてはならないとされるものであります。
 次に、三宝の最後は、僧宝、「僧侶の宝」ということです。『四恩抄』に
 「僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。…仏法有りといへども、僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」
とあります。
 僧宝とは、大聖人より直接、仏法の真髄である本門戒壇の大御本尊を身に宛てて授けられた第二祖・日興上人が、僧宝随一の宝であります。
 たとえ日蓮大聖人という仏が教えを説き、大御本尊という最高の法の宝を残されたとしても、日興上人が、その大御本尊を正しく受け継ぎ、守って来られなかったならば、大聖人の仏法は、それこそ、日蓮大聖人のご入滅によって、途絶えてしまったことでしょう。
 実際、大聖人が九年間も住まわれ、親しまれてきた身延山を、どうして日興上人は、離れなければならなくなったのかといえば、そこには、正しく法を守るという大きな理由があったわけです。
 すなわち、大聖人の高弟六人のなかで、日昭、日朗、日向といった人々は、大聖人がご入滅されると早速、権力による迫害を恐れ、「謗法厳戒」ということを前面に出さなくなってしまいました。あるいは、みずから「天台沙門」、つまり「我々は、あの有名な天台大師の流れを汲んで法華経を弘める僧侶である」等と名乗るようになってしまったのです。また、あろうことか、仮名文字で書かれた大聖人様の御書を焼き捨ててしまったりと散々なことを行ないまして、その流れを汲むのが、現在の日蓮宗身延派と呼ばれる宗派であります。
 これに対して日興上人は、こんな人たちと、いつまでも一緒に居続けては、大聖人の仏法の命は失われるとの危機感を持たれ、唯一の大聖人の後継者としての強い自覚のもとに、戒壇の大御本尊や御書、大聖人のお墓の中から、お骨(こつ)までも取り出だして、身延山から富士山へと移られたのです。よって身延離山ということは、もちろん大聖人の御遺命である富士山の地に戒壇を建立するという大目的があったものの、やはり、仏法を正しく護り、未来に正しく伝持していくために行なわれたとも言えるのです。
 このように、日興上人がおられなければ、今の我々は、この信心で成仏していくことはできなくなっていたのですから、僧宝随一・日興上人への報恩感謝ということを考えていくことが大事であります。

 さて、ここまで四恩について、ご説明いたしましたが、それでは、これらの恩に対して報恩謝徳していくためには、具体的に、どのようにしていけばよいか、ということです。
 『御書に』
 「自身仏にならでは、父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや」
とあり、また
 「日蓮が唱ふるところの題目は、前代に異なり自行化他にわたりて南無 妙法蓮華経」
ともあります。
 つまり、結論として申し上げれば、我々一人ひとりが力に応じて折伏をしていくということ。それこそ本当の意味で、自分の成仏と同時に、世間や両親、仏様への真の恩返しになっていくことを示されているのです。

 まだまだ世間には、真実の仏法を知らず、様々な苦悩にあえぐ人々が後を絶ちません。特に、私たちの身近なところにあって、自分の信仰が間違っているとも知らず、結果として知らぬ間に謗法に荷担してしまっている創価学会の方々。顕正会・正信会の人達もまだまだたくさん、いるわけです。
 今、そういう方々に、私たちが真心をもってお話をしても、なかなか聞き入れてくれません。すると、心のどこかで、
「もうあの人たちは、頭がおかしくなってしまった。頭破七分なんだから、何を言っても、もうダメだ」
と。そのように、なかば折伏を諦めてしまう心が生まれてくる場合もあるでしょう。
 しかし、実際には今でも、全国各地、全世界でも、たとえば創価学会を脱会して総本山へ戻っている人もいるのです。私のお寺でも、ごく最近、みずから正法を求めて、お寺を訪ねてきた学会員さんが何人もいます。なかには、今日、ここに参加してくださっておりますけれども、ご家族の命がけの遺言によって、幾多の困難を乗り越え、このたび、ようやく日蓮正宗に戻ることができまして、先ほど伺ったところによれば、三十数年ぶりに大御本尊様に、やっと、やっとお目通り叶うという方もいます。
 あるいは、二十年以上悩み続けていた学会婦人部の方が、勇気を出して日蓮正宗の文書に目をとおして脱会して、早速、家族を折伏できたという人もいます。またあるいは、子どもの頃に教わった「日蓮正宗」という名前をかすかに覚えていて、お寺を一生懸命に探して、訪ねてきた創価学会の青年部だった男性。また、昔から大事にしてきた「過去帳」の最後の頁に、「日蓮正宗」という名前を見つけ、遠い記憶をたよりに、地下鉄を乗り継いで、お寺までやってきた老齢の婦人部の人。
 いいですか、皆さん。創価学会や正信会等の人はけっして、「頭がおかしい変な人だから」から「脱会しない」わけではないのです。
 もちろん、毎日のように謗法に洗脳されて、素直に話しが聞けない状態にあることもありましょうが、それ以外でも、たとえば家族に止められていたり、どうしても抜けられない何らかの理由があって、「日蓮正宗に戻りたくても戻れない」という人も、まだたくさんいるのです、そういう方々へ救いの手をさしのべることができるのは、勇気を出して一(ひと)足(あし)先に、大御本尊の元へと駆けつけた、皆さんしか、いないのです。

 先日も淡路島で五人もの方が惨殺される痛ましい事件がありました。あるいは、大学の先生が教え子に手をかけたとか、ホワイトディーのプレゼントがもらえなかったとかで、奥さんがご主人の首をネクタイで締めて逮捕されたとか、もう、いったい、世の中で何が起こっているのか、さっぱり分からない程、恐ろしい時代になっています。東日本大震災の傷跡もまだ癒えず、原発の問題も解決できないまま、次々と、新しい天災や人災も続いています。
 日如上人は、こうした世の中の混乱、人々の苦しみをご覧になり、次のように仰せです。
 「魔に魅入られた人は、争いを好み、悪に染まり、破壊を好み、自己本位の人格となって、わがままで、我意我見に基づいた考えを持ち、世の中に争いと怒りをまき散らすのであります。…仏法上から言えば、実は天災も人災も、一切がここから起きていることを知らなければなりません…したがって今、我々は、これらの魔の跳梁(ちょうりょう)を許すことなく…大御本尊の縁に触れた聖なる生命の用きをもって、世の中を救っていかなければなりません」(平成二十七年三月度広布唱題会の砌)
と、このような御指南です。
 我々一人ひとりの力は小さく、「自分ひとりが頑張ったからといって、何が変わるんだろうか」と不安に思うこともあるでしょう。しかし大聖人様は
 「日蓮一人はじめは、南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。未来もまたしかるべし」
と、地道な折伏は確実に同志を増やし、広宣流布への道は、必ず開けていくんだと、今の私たちを励ましてくださっています。
 我々がまず身近なところから、真心込めて折伏して仲間を作り、ともに唱題し、世の中の平和を祈っていけば、動きにくい、嫌な国土世間も、必ず大きく、ゴロリと、良い方向へ動かしていくことが、必ずできるのです。
 そのために今、なんとしても、法華講・八十万体勢が、絶対に必要なんだと。世界の平和に向けて、南無妙法蓮華経の大功徳力をもって世の中を大きく動かしていくために、今こそ我々の信心の力を結集しよう、大きな力を作っていこうという、御法主日如上人の強いお志に基づいた「法華講八十万人体勢の構築」であると拝察申し上げるものであります。
 どうか皆様には、この大きな目標と、そして、私たち自身の具体的な身近な願いを一つひとつ叶えていくため、なお一層唱題に励み、「知恩報恩の精神」のもと折伏行にご精進されますようお祈り申し上げます。
 以上、本日のお話とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

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