定業と不定業  宿命転換の信心

 

 仏教では、すべての生命は、過去世の業因によって、それぞれの運命・境遇に生まれ、苦楽の日々を生きていると説明します。
 つまり、この世に存在するあらゆる事物はそれぞれ因縁によって生滅を繰り返しますが、同類近似の業報の強弱によって互いに相即し相反し、次の世に生まれ変わっていく、というのです。一生の間、積み重ねた行為の総和、善悪の意義が、たとえば畜生の業因に当たることが強い人は、自身が好むと好まざるとにかかわらず、次の生には畜生の父母を縁として、自分の振るまいの業を因(因縁)として「畜生」として生まれ変わる、ということです。
 仏法では、自我や霊魂が常に有り続けると考えるのは、外道による「常見」との誤った生命観・認識であり、これを「迷見」であるとして破折します。しかし、このことと、自他の因縁による一多相即、自他円融、十界無辺を説く大乗仏法の立場における三世の生命観とは明確に区別しなければなりません。世間で騒がれる霊魂不滅論とか、幽霊、幽魂の存在とかの例証は、この因縁の大原理によって、変相流転する生命の、わずか一面を垣間見たものに過ぎず、その結論自体が、個我に捕らわれる誤った認識以外の何者でもありません。
 日蓮大聖人が説かれる仏法では、このような小我の固有的存在だけに捕らわれるのではなく、正しい因縁に基づく十界の生命観による業報を教えています。人間はもちろん、宇宙法界に遍満するすべての存在は、因縁によって生滅し流転していくのであって、こうした生命の三世にわたる業、すなわち存在は、これを業因と見ることと業果・業報と見ることの両面によって成り立っています。定業・不定業は、こうした三世の因縁果報のうえに論じなければ、その正しい姿を捉えることはできません。

 

定業と不定業
 現在の宿命・宿業のなかで、前世からの業因業縁によって、生まれた時から既に決定づけられ、改変することができない部分を「定業」といいます。一方で、生まれてからの善悪の振る舞い、自他の仏道修行の功徳によって、変えていくことができる業を「不定業」といいます。 たとえば、生まれたときから不幸にも眼根に欠けてしまった人は、現代科学の範疇においては、どんな治療を受けたとしても肉眼を得ることはできません。訓練して日常生活を健常者と同じように過ごすことができるようになったとしても、肉体的不便さが残ることは否定しがたく、盲目であることには変わりはありません。このような残念ながら変えることのできない業を「定業」というのです。その他の病気にしても、治療が難しい・不可能で、死ぬべく定まった病気(業病と呼ばれるもの)が起こるのも「定業」によるものとされています。
 さて、現在の業による我々の苦しみは、自己自身の生命力を根本とし、適切な方法によって打開できる可能性も秘めており、そのいずれかは今後の善悪の因縁による、というような場合は、その持ってうまれた業を「不定業」と言います。通常の軽い病気などは、優秀な医師による治療や手厚い看護などを受けて、病気を完治し病苦を克服することができる。そうした時の病気は「不定業」に属します。
 私たちの毎日の生活には、この定業・不定業の両面が常に存在していますが、現代人の間には、人生の進路を踏み間違えて、不定業(自分の正しい努力で変革していける不幸な状態・環境)の悪因縁すら打ち破ることさえできず、業苦の荒波に沈没し、自暴自棄になったり、他人に不幸の原因を押しつけ困った姿、物の見方、生命観が蔓延しています。
 「不定業」は、その多くが、世間の指導者の助言、あらゆる専門職などから得られる科学技術、本人が過去世に積んだ善徳、人生の指針たる正しい仏法の功徳等によって、不幸を幸福に、悪を善に転ずることができますが、「定業」によって受ける苦しみを転じていくことは、正しい仏法によって自身が仏道修行を積み重ねる以外に方法はありません。
 日蓮大聖人様は『可延定業御書』に
 「業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況んや不定業をや(略)当時の女人の法華経を行じて定業を転ずることは秋の稲米、冬の菊花、誰かをど(驚)くべき」(御書760)
と教えられています。
 ここに、私たち凡夫のつたない人智をもって計り知ることができないような重たい定業の原因、また、なかなか克服することが難しい定業による苦悩も、仏法の不思議な功徳・道法により救われていくことが可能となるのです。たとえば、過去世の悪業によって定業として盲目に生まれたきた人でも、妙法受持の功徳によって、たとえ肉眼そのものを持つことができなかったとしても、その肉眼以上の慧眼・法眼・仏眼を身に具え、むしろ健常者よりも充実した楽しい、すばらしい人生を歩んでいくことができるようになるのです。これこそ最高の心眼の開覚であり、正しい心眼をもって一生を有意義に過ごしていくことによって、こうした「定業」を持った人こそ、むしろ、来世には無限の眼を得ることができるのです。それは、「定業」によって苦しむ人が、深く過去の謗法罪を懺悔し、唯一の末法の仏様であられる日蓮大聖人のお言葉を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるところに、「定業」を転換していく功徳力が生ずるからなのです。これこそ信の一字が大切なゆえんであり、その功徳は深重な悪業をもよく転じ、氷解させることができるのです。

 

顕益と冥益 冥益を固く信じて
 ところで、妙法信心による功徳・利益には、顕益と冥益の二つがあります。
 冥益(みょうやく)は、植物の種子の芽が地表に向かって生長するようなもの、顕益(けんやく)は、冥益がある一定の度合いまで進んだ先、芽がようやく地表に現われ、さらに高く高く天に向かって伸びていくようなもの、それが顕益です。
 顕益の場合は明らかな現証として功徳が誰の目にも認められるものですが、冥益の場合は、眼に見えるような明らかな現証が、なかなか現われない場合が多く、時に信仰者・仏道修行者を迷わしたり、仏道修行への意欲を削ぐなどの場合があります。
 しかし、末法万年のご本仏であられる日蓮大聖人の、妙法の一念は広く法界に遍満するのですから、どんな人でも妙法の御本尊を信じ、唱題に励み、力に応じて折伏に邁進するならば、あらゆる障害から解き放たれる無限の可能性を秘めた尊い徳を感得することができるのです。今は目に見えた結果が、なかなか得られなかったとしても、御本尊の冥益を固く信じ、さらに将来の顕益を確信して、目の前の信行に邁進することが大切です。

 今、定業に悩むみなさん。冥益の実義は信ずるものの顕益の現出が待ち遠しく、いまだ悩みの絶えない境界に不安を抱く人であっても、こうした日蓮大聖人の大慈大悲の御徳と、御本尊の尊い功徳・利益を確信し、自身の強盛な実践によって、必ず過去世から背負ってきた重い罪障によって定められた運命、定業を克服していく、一生成仏を目指して一層信行に邁進していきましょう。

 

 ※上記文章は、『日蓮正宗要義』本に掲載されている「定業・不定業」の文章について、筆者が表現を変えるなど一部手を加えさせていただいたものです。

 

   信ずるものが変わると 価値観が変わる

 

  価値観が変わると 人生が変わる

 

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毎月の行事

 

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第 1    日曜日 

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第 2    日曜日 

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            14:00

 

お講前日の土曜日  

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