平成二十四年三月十七日

総本山法話 ①   

             

        「折伏の実践」                                  

                           

                          妙通寺 細 井 道 迅


 皆さん、こんにちは。本日は総本山へのご登山、誠にご苦労様でございます。命により少々、お話を申し上げます。どうぞ足を楽になさってください。

 ご案内のとおり、日蓮正宗では、平成二十七年、三十三年のご命題に向かって現在、日本乃至世界中の僧俗が一致して折伏に励み、もって広布に向かって前進しています。
 そのなかで、ことに「折伏」の意義について御法主日如上人猊下は
 「人が溺れているのを見て、助けない人がいないように、我々も(中略)誹謗正法の罪を犯してしまっている人たちを救っていかなければならないのです。それが我々法華講衆の努めなのです」(折伏要文 二九)
と仰せになり、日蓮大聖人の仏法を信ずる私たちには、率先して折伏を実践し、人々を救っていくべき使命があることを示されています。
 そこで本日は、その「折伏」の意義と「使命」について、その一端を拝してまいりたいと思います。

 


□法華経こそ真実の教え


 まず始めに、インドに出現された釈尊は、三十歳の時に悟りを開き、その後、五十年間にわたって人々を救うため、たくさんの教えを説かれました。なかでも、最後の八年間に説いた教えが「法華経」です。この法華経について釈尊は、最高の教えであると称賛する一方、それ以前に説かれた御経はすべて、この法華経へ導くための手段・方便であった事を明かされます。すなわち、建物を建てるために組んだ足場のようなものが、念仏の教えであったり、真言宗などで読む御経である。ですから「法華経」という立派な建物が完成した以上、工事に使用した足場は取り除くべきであって、法華経以外の御経(足場)に、いつまでも執着することは、むしろ釈尊の心に背き、真実の教え(完成した建物・法華経)の実践を妨げることになる、ということです。
 さらに釈尊は、上行菩薩に、法華経の命である南無妙法蓮華経を付嘱し、未来・末法の衆生救済を託されました。その付嘱の筋目にのっとり、上行菩薩の再誕・本地久遠元初の仏であられる日蓮大聖人が出現され、成仏の根源の仏種である南無妙法蓮華経の御本尊を建立されたのです。
 日蓮大聖人の仏法が真実・最高である理由のひとつに、このように、方便の教えが混ざっていない、完全無欠・円満の南無妙法蓮華経だからということが言えます。よって、その完全な仏法を信ずる我々も、法華経以外の宗教に目移りすることなく、ただひたすらに、南無妙法蓮華経の御本尊を信じなければならないと教えられるのです。

 


謗法の恐ろしさ


 さて、末法の今、南無妙法蓮華経以外の仏教や、その他の外道を信ずることはすべて、「謗法」と言います。「謗法」とは、「誹謗正法」ということで、要するに、法華経を信じても功徳がないと批判したり、実際に法華経を信じないことです。そして、日蓮大聖人は、御書(顕謗法抄)に
 「謗法とは法に背くという事なり(中略)謗法とならばなんぞ苦果を招かざらん」
                              (御書二八六)


と仰せになり、謗法は、苦しみや悩みを招く、一番の原因であることを明かされています。
 この謗法の果報については、また法華経には
 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば(中略)その人命終して阿鼻獄に入らん(中略)常に 地獄に処すること園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること己が舎宅の如し」(御書二〇八)
とあります。
 この意味は、法華経を信じない不信謗法の人は、何度か生まれ変わるうちに、徐々に苦しい境界に生まれ変わり、ひどい時には地獄界に生まれることもあるということです。もし、地獄のような境界に生まれ変わりますと、最初は大変な苦しみに悩まされます。しかし、そうした境界にしばらくいるうちに、徐々にそういった苦しい環境に慣れてしまって、たとえ自分が地獄のような世界にあっても、その世界にいること自体が、なんだか居心地がいいように錯覚するようになり、ついには、そこから抜け出そうという気力さえ、失ってしまうというのです。
 たとえば、「わが家は親子の会話がなく、仲が悪い」と歎いて、最初のうちは非常に悩んでいても、次第にそうした環境に慣れてしまいますと、たとえ折伏を受けても、
 「家族のことなんて、もう、どうでもいいです」
と、そういった投げやりな態度になる。
 生命力が感じられなくなるというのは、端的に言えば、「向上心を失う」ということです。また、「地獄に堕ちる」というのは、針の山や、血の海で苦しむことよりも、むしろ、もっと現実的な苦しみなのです。
 生きる望みを失う。生き甲斐もない。「自分なんて、早く死んでしまえばいいんだ」という、悲しい状況。念仏信仰などは、さらに輪を掛けて、「この世は穢れた不幸な世界であり、死んでから極楽に往生しよう」と教えるものですから、念仏の害毒におかされてしまいますと、周りで如何に励ましても、「どうでもいい」と。そういった命はまさに、生きる望みも失われた地獄のような境界であって、それはすべて、根本的には法華経を信じない。謗法の結果であると、法華経では教えているのであります。

 


なぜ、謗法が不幸の元凶といえるのか


 それでは、なぜ不信謗法になると、そうした状況になるのでしょうか。
 理由はいくつかあるものの、そのひとつに、「謗法」とは「仏の心に背く」ことも意味しますから、そうした心を持っていれば、煩悩も積み重なって、我々の心や命までもが濁ってしまうのです。すると、曇った鏡をのぞき込んでも何も見えないように、一切の物事を正しく見ることができなくなります。ですから、人に騙されたり、欲望に任せて振る舞った結果、大事な物を失なう。邪見とか偏見という迷いを挙げることもできますが、そのように、本当に大切なものが見えなくなることにより、多くの人が、みずから不幸になる原因を作り、種々の苦悩に悩まされていると言っても過言ではありません。
 これに対して、法華経を信ずる功徳について大聖人は
 「功徳とは六根清浄なり」(御義口伝 一七七五)
と仰せになるように、常に題目を唱えて、我が命を、毎日毎日きれいに磨いていくことによって、我々のような迷いの凡夫であっても、六根ことごとくが清浄なものとなる。とくに信心を通して一切の世事を見ていくための、尊い仏様の目、仏眼の徳を具える事ができると教えられているのです。
 仏眼を具えるという事は、不思議な超能力を持つことを言うのではありません。もっと身近なところ、今まで見えなかった大切なことが、よく判るようになる。人生の中で進むべき道が、きちんと見えてくる。そういった功徳を身に具えるということです。ですから、今現在、特に困ったことがない、という人であっても、長い人生を生き抜いていくためには、どんな人も、この南無妙法蓮華経の信心をしていかなければならない、とされるのです。

 


功徳を得る信行


 さて、そうした法華経の功徳を実際に身につけていくために、大聖人はまず
 「法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(御書一三七〇)
とのたまい、その具体的実践としてまた、
 「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書 一五九四)
と仰せになって「自行化他に亘る題目」の大切さを教えられています。自行、即ち自分自身が勤行・唱題をしっかりと行なって幸せになり、そして、化他行~自分だけが信心するのではなく、家族や知人、私たちの周りの皆にも、この信心を勧めてともに題目を唱え、世界の平和を祈り、世の中の役に立てる立派な人格者へと成長していく。このことが、自他?に、真の幸せを掴んでいく題目の修行となる旨を教えられているわけです。



罪障消滅のための折伏


 さらに申しますと、大聖人はまた、
 「先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」
                             (佐渡御書五八〇)


と仰せになり、私たちが折伏をする、もうひとつの意義は、遠い過去から背負ってきた謗法の罪障を消滅させていくためである、と示されています。
 世界中、どんな秘境へ逃げたとしても、逃れることができないのが、自分が行なった振る舞いの責任です。とくに末法に生まれてきた我々凡夫は、誰もが過去の世に、謗法による罪障を積んでいると説かれています。その罪障は、先ほど申しましたように、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕落していく原因となるのであって、そのような悪業を今、ひっくり返して善業へと転換させる。本来は絶対に不可能と思われる「持って生まれた宿業を大転換しよう」というのですから、並大抵の信心で、叶うはずはありません。それを唯一可能とする方途こそ、折伏なのです。
 御法主日如上人猊下は
 「我々本未有善の衆生は、過去世において様々な罪障を背負ってきています。(中略)折伏をして種々の迫害、難を受けることによって、ますます信心強盛になり、そして難を受けることによって様々な過去世の罪障を滅していくことができる」
                           (折伏要文 一二)
と仰せです。
 折伏は、人々を、大聖人の正法へと導いて、生命の奥底から救って行くと同時に、私たち自身も、謗法罪障を消滅し、一生成仏の功徳を積ませていただくことのできる、最高の修行であるということです。

 


折伏体験の姿


 さて、私のお寺に、約三年前に入信した婦人がいます。彼女のお母さんと妹さんは創価学会員ですが、彼女は、若い頃からどうしても学会が好きになれず、「親は親、自分は自分」と反発していました。しかし一方、職場でのストレス等から、「安らぎが欲しい」との思いもあり、お姉さんとともに、ある新興宗教に入信していたのです。
 ところが、その新興宗教に入っても、安らぎどころか、かえって心の乱れる日が多くなったといいます。ついに体調不良も出て、辛い日々を過ごしていました。
 そんなある日、同じマンションに住む婦人とエレベータでバッタリ出会いました。家族皆が仲良しで、いつもニコニコしている奥さんです。それまで挨拶程度しか言葉を交わした事はありませんでしたが、なぜか彼女は、
 「どうして、いつも笑顔でいられるんですか」
と話しかけてしまったのです。
 「今度、うちにいらっしゃい。すばらしいことを教えてあげるから」
との返答にすがり、後日お宅に伺ったところ、御本尊様を見せて頂いたのでした。
 奥さんに連れられて、私ともお会いし、お寺の朝の勤行に通うようになりました。朝の勤行ですからテンポも早く、最初は目で経本を追うのが精一杯でした。それでも一生懸命に通っているうちに声が出るようになり、すぐに五座の勤行が上手に出来るようになりました。すると彼女から、
 「御授戒を受けた方がいいと聞いたんですが、私は許可していただけませんか」
と申し出てくださり、無事に御授戒。「どうせなら家族全員で」ということでご主人とお嬢さんも入信されました。ご主人とお嬢さんも勤行に参加し、素直に信心されるようになりました。
 しかし、彼女は、当面、自分には折伏はできないだろうと思い込んでいたかもしれません。これは、無理もありません、今までの人生で、「仏教を布教しよう」などという機会が、まったく無かったのですから…。しかし、自身の限界を超え、固い殻を打ち破り、煩悩を菩提へと転換していくには、折伏に打って出なければなりません。
 ようやく彼女もそのことに気づかれ、「なんとかして折伏したい」と願うようになりました。すると不思議なことに、その頃から、かつて自分が抱えていた悩みと、同じようなことに苦しむ人と、出会うようになりました。彼女は、丁寧に悩みを聞いてあげたうえで、「もしよかったら、一緒にお寺へ行ってみませんか?」と誘うようになりました。
 また、新興宗教のままになっていたお姉さん。気にはなっていたものの、
 「姉は、おそらく入信など、するわけがない」
と思っていたそうです。ところが突然、お姉さんのご主人が大病を患われ、「こうなったら、ダメモトだ」と、意を決して電話しました。
 「変な宗教は、すぐに辞めてほしい。そして大石寺へ見学に行こう」
と誘ってみたのです。
 「わかった、行く」という思いがけない即答にビックリして、すぐにお寺に駆け込んできました。「善は急げ」と、私と三人で本山見学に行きました。丁度去年の、桜の頃です。往復七時間のドライブ中、いろいろと話をし、お姉さんも入信を決意しました。彼女は、ようやく、ここへきて友人と、お姉さん、そのご主人も入信させることができたのでした。
 その喜びが、彼女自身を大きく変えました。ちょっとした事にも動じない。デンと構えて唱題できる、頼りがいのある女性になられたように感じます。

折伏してこそ、信心の本当の喜びは得られる
 誰でも、真っ暗闇の中では、怖くて前に進むことはできません。どんなに小さくてもいいから、明かりが灯ってこそ、前に進む事ができるものです。信心も同じで、私たちは、明日の信心に、わずかでも希望や喜び、「楽しみだな」という明かりを見出だすことで、信心を前に進めていくことができると思うのです。その「喜び」は、やはり、自分の願いを叶えるのと同時に、折伏した人が御本尊様の功徳をいただいて元気になっていく、幸せになっていく姿を目の当たりにしてこそ、得られるのではないでしょうか。
 「折伏をしたいけれども、なかなかできない」
のと、最初から
 「私は折伏しません」
というのとではまったく意味が違います。失礼な言い方をしますと、「私は折伏はしません」と堂々と言う方の信心は持続することは難しいのではないでしょうか。たとえ入信当初は喜んで登山したり、お講に参列していても、折伏を忘れた信心は、十年もすれば、「忙しい」「年取った」「充分に登山したから、もう行きません」との愚痴の言葉が必ず出てきて、それ以上の成長は難しくなります。成長しないどころか、信心が後ろ向きになり、ついにお寺から遠ざかっていくことにもなりかねませんし、そういった姿を実際に見ております。
 なぜ、そのように言い切れるかと申しますと、折伏は「信心の命・炎」だと思うからです。ですから、その「命」である折伏について「自分には関係ない」「自分は折伏しない」と否定してしまえば、信心の命の炎が、やがて消えてしまうのは当然だと思うからです。
 私たちは、尊い信心の「命の炎」を灯し続けるため、毎日、毎日、油を注いでいくことを忘れてはなりません。その油こそ、歓喜、信心の喜びではないでしょうか。
 日蓮大聖人は
 「南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝1801)


と仰せです。信心の喜びは、自行化他ともに励んでこそ得られることを忘れてはならないと思います。



□終わりに


 先週、東日本大震災からちょうど一年の節目を迎えました。三月に入ってから、テレビでも何でも、震災の特別報道が繰り返されておりまして、そうしたものを見るたびに、
 「人間にとっての真の幸せって、一体なんだろう」
と考えさせられるのは、私だけではないと思います。被災された方に限らず、今、日本中の人々から、生きる希望や力を根こそぎ剥ぎ取ってしまうような、本当に悲しい現実の問題が、まだまだ多くの人々を苦しめています。
 日如上人は、かつて、次のように示されています。
 「我々は人間に生まれてきて、そして何をすべきなのか。これには、いろいろな考え方があるけれども、やはり世のため人のために尽くしていくということが大切なのであり、自分のためだけに生きていくというのは、これは小乗の考え方なのです。(中略)他の人のためには何も行なわない人に、仏様は『お前たちは絶対に成仏しないぞ』と言われるのです。我々が折伏をするのは、一切衆生救済という慈悲行に徹するからであり、世のため、人のためなのです。(中略)今、世間がこんなに殺伐としているのは、みんなが自分のことしか考えないからです。(中略)自分自身のためだけに、いくら題目を唱えてもだめなのです」(折伏要文 五九)
と、このような仰せです。
 私たちは、南無妙法蓮華経の御本尊への信仰のもとに生きています。しかし、信心をしているからといって、困ったことが無くなる訳ではありません。病気もするし、怪我もする。事故に巻き込まれる事だってありますし、あのような大震災が起これば、信心している人であっても、その災害から免れられないということもあります。しかし、だからこそ、私たちは常に、何があっても動じないよう、しっかりと信心を根本とした生き方をしていかなければならないと思うのです。
 どんなに辛い時も、また楽しい時も、いつでも御本尊を信じて題目を唱え、精一杯、生き抜いていく。これこそが、災いを、涙で終わらせるのではなく、災いを転じて幸いとしていく最高の人生の智恵、そして術でもあります。今、本当に私たちが折伏を行なって、一人でも多くの人に生きる真の目的を示し、そしてまた、希望、願い、幸せを分かち合っていく事こそ、私たちがこの世に生まれてきた尊い使命である。そのことに心を馳せて、本年の果たすべき「使命の折伏」を、皆さんとともに実践して参りたいと思う次第でございます。
 

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info