戸田城聖氏 指導集

 

◇「先生!」などと呼ばれて威張っていてはならぬ
 なかには先生などと呼ばれて、さも偉そうな顔をしているものもいるが、もってのほかといわざるをえない。ことに、自分の指導しているものにたいして、威張(いば)り散らしたり、押さえつけたりすることは、絶対に禁物である。ただ、この世に生まれてきて、一言にても法の説けることを御本尊に感謝して、謹み深くあらねばならぬ。
                          (戸田城聖全集1巻97ページ)


◇どなたが御法主になろうが、一切口出しをしてはならない
 先代牧口先生当時から、学会は猊座(げいざ)のことには、いっさい感知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破るものは、たとえ大幹部といえども即座に除名(じょめい)する。信者の精神はそうでなければならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落(ぼつらく)した罰当(ばちあ)たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然、そうなる。     (戸田城聖全集3巻235ページ)

 

 

◇御法主上人を大聖人と拝し、その御指南に従うのが正しい信心
 どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、わたしは水谷猊下(64世日昇上人)にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである。

                         (戸田城聖全集3巻236ページ)

 

◇御法主上人を大聖人と拝し、その御指南に従うのが正しい信心
 法水泻瓶(しゃびょう)というのは、ここに二つの茶碗が、どんな形に変わっても、このなかの水を泻せば、中の水は変わりないのであります。ですから、代々の御法主上人は、お人によって、いろいろとお姿は違うのでありますが、日蓮大聖人の法水が、そのまま変わりなく移されているのであります。          (戸田城聖全集5巻439ページ)

 

 

◇御法主上人への信を通して大御本尊を拝すとき、初めて功徳をいただける
 御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる。  (戸田城聖全集4巻398ページ)

 


◇お寺への御供養は、罪障消滅のための大事な修行
 寺ができたら、寺を大事にしていくことが第一。第二には、座談会とお寺参りとをごっちゃにしないでほしい。御講などのある場合には、お寺に御供養をする。寺に何か事があった場合は、入り口に白い紙を置いて御供養をするのです。たくさんとは云わないが、心からするように。これを始めに言っておかないと、いまだにやっていない寺がある。お布施をすることは、坊さんを喜ばすためにするのではない。それは、御供養をして、罪障(ざいしょう)を消していただくためにするのである。     (戸田城聖全集4巻502ページ)

 


◇大石寺への登山参詣は、「親元に帰る」心で!
 各家庭の御本尊は、大御本尊の血肉をわけた分身であり、功徳には変わりがありません。総本山の大御本尊にお会いするのは、親元に帰りたいといった気持ちで、なつかしがってくるようでなければなりません。            (戸田城聖全集2巻27ページ)

 

 

◇大石寺に登山参詣し大御本尊を拝んでこそ、ホンモノの信心ができる
 なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉御供養で拝むことができるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている。  (戸田城聖全集3巻490ページ)

 


◇御法主上人猊下は特別な存在
 七百年前、日蓮大聖人様には、当時六老僧といって、六人の高弟がおられましたが、そのなかで、ただ日興上人お一人に、いっさいのものをお譲り渡しになっています。それが堀米日淳六十五世猊下まで、血脈相承といって、われわれの御法主上人に、法水の容器は違うが、その内容は一滴ももらさずに伝えられてきておるのです。だから御法主上人だけが、御本尊様をしたためることができる方なのです。    (戸田城聖全集2巻37ページ)

 


◇先祖を供養するには「塔婆供養」が不可欠
 (塔婆供養について)形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。塔婆(とうば)供養の原理についていえば、色心(しきしん)不二の二法であるゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業(ごう)が薄くなり、苦悩を少なくしうるのです。一個の肉体を塔婆として、これ自体が死人の肉体に変わり、自身の生命を強めることができます。この功徳は、一心法界ですから、じぶんの身に帰るのであります。生命論がわからなければ、この深い原理はなかなかわかりません。    (戸田城聖全集2巻176ページ)

 

 

◇塔婆を立てることが最高の先祖供養
 よく世間では、ナスやキュウリを箸にさして飾ったりしますが、そんなことで先祖供養ができるわけはありません。聖僧を呼んで供養すべきであります。だが、聖僧といってもいません。真の聖僧は、日蓮正宗の御僧侶のみであります。ところが、こんなにおおぜい呼んで食べていただいたら、財布が下痢をしてしまう。そこで塔婆供養をするのです。

                         (戸田城聖全集2巻178ページ)


◇大聖人の仏法を七百年間正しく伝えてきたこと自体が、日蓮正宗の大功績
 わずか小勢百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の「御出世のご本懐」たる弘安二年十月十二日ご出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護したてまつって、七百年間、チリもつけず、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に身心一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。朝夕の給仕、大聖人ご在世と一分も変わりなく時勢の隆替にも、法主上人の代々にも、なんら変わりがないことは、大聖人ご在世を拝すると同様である。(戸田城聖全集1巻43ページ)

 


◇大聖人の仏法を七百年間正しく伝えてきたこと自体が、日蓮正宗の大功績
 かくも法体を守護し、かつ化儀(けぎ)連綿(れんめん)たる功績こそ称えねばならぬことである。この上に、大聖人のご教義は、深遠にして厳博であって、愚侶の伝うべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損するなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのまま伝えられたということは、仏法~真実の仏法哲学を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか。         (戸田城聖全集1巻44ページ)

 

◇(戸田城外(城聖)理事長 昭和17年当時 戦争中の指導
 「今日の貧乏は過去の盗みの罰である。この世の病弱は過去の殺の報いである。美しく生まれるのも金持ちに生まれるのも、過去の精神活動の果報である。されば今日の精神活動が、翌日からの生活に現われないわけがない。只邪法のものは、この理法を体験しないから、毎日の生活を個々のものと見て、今日以前の心のおき方、精神の活動から来て居ると見ないだけである。我々同信のものは、この理法は直ちに承服できると思う。そして、大御本尊様にお目通りし、題目を唱えている以上、過去の悪い業因は消えて居るのだ。毎日毎日御つとめ(勤行)しているから、過去の精神活動が本日の生活に影響しない訳であるのに、心の奥にひそむ過去の悪性が、時々刻々と現れて菩薩行を邪魔する。故に明日からの生活が改善できないのである。だから自分の仏たる位置を認識し、これを行動に移せば、その通りのよい事が現われるし、これを狂った心で事をすれば、狂った事実が翌日から現はれるのである」(昭和17年 12月 大善生活実証録 14ページ)

◇ 「丑寅(うしとら)勤行について」
 むかしは時刻をば十二刻に分け、二時間を一刻に数えました。子(ね)の刻(こく)は午前零時からであり、二時から四時までが丑の時間であります。その夜中の三時ころは、もっとも世の中が静かで、地球上は万物ねむりつくす死の状態の時であり、通途にも、幽霊がでる時刻を丑満時(うしみつどき)というごとくであります。丑と寅の時刻について、当流行事抄(日寛上人御述)に「陰(いん)の終わり死の終わり、陽の始め生の始め、陰陽(おんよう)は生死の中間(ちゅうげん)なり」と。御書には「御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならず迎いにまいり候べし。三世の諸仏の成道は、子丑のおわり、寅の刻みの成道なり」(一部、読みやすいように漢字になおしてあります)と、その時、代々の御法主猊下が、一日も絶え間なく勤行なさって、世の中の幸福を祈られているのです。
 われわれの丑寅勤行の心がけとしては、個人個人がかってにやるのではなく、家でやるときも、お山で御法主猊下がご祈願なされている、そのお供をして、やらせていただくという心がけでやるようにしなさい。

 

◇本門戒壇の大御本尊のもと(大石寺)へ導くのが学会唯一の使命

 私たちは無知な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば、車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内していくのが、学会の唯一の使命である(戸田城聖全集③113㌻)

 

 

 

 

◇「良き法・良き師・良き檀那」

 大聖人様のおおせられるのは、祈りは必ずかなう。それには時がある。良き法と良き師と、良き檀那との三つがそろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。(大石寺にまします本門戒壇の)大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代(日昇上人)のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那(檀信徒)として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります。

         (昭和30年12月13日 関西本部入仏落慶式  戸田城聖全集4-399)

   ※本文中の(  )内は、当ホームページ編者がわかりやすいように加えた部分です。 

 

 

 

◇御本尊は学会が作製するわけにはいかない。御法主上人以外のものは、みなニセモノ

 大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ。紙や木が仏にならんというのならば、御本尊様に力がないことになります。(中略) 

 お山の法主上人様は人界の仏界にあらせられる。仏様です。仏様ですけれども、やっぱりですね。そりゃ仏様だからといっても、やはり十界ありますよ。法主上人様だからって、モッタイナイことを申し上げるようですけれどもね、ああお腹が痛いなんてね。おこる事だってありますよね。そのように、仏の境界をえたとおっしゃられても、朝から晩まで、仏の境涯であられるわけではないのです。やはり、十界の中にお住みになっているのです。

                       (大白蓮華 昭和34年7月号 9ページ)

 

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

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