空仮中の三諦 法界の真実相 (法華経の重大義である諸法実相・中庸理念の基本)   

 

                   総本山第65世 日淳上人御述


 仏教に於ては迷悟・因果・主客の関係に於て種々の教えが説かれてをって、此の立場から或は現象の世界、或は実在の世界、或は認識の世界、或は主観につき、或は客観の世界と全般にわたって解明されておりますが、その教えの根底であり、中枢となってをりますのは、諸法実相の教えであります。此れは仏の悟りの世界の真実相であるからであります。
 諸法実相といへば、その教えは法華経にをいて究竟(くきょう)して説かれてをるのでありまして、その他の経にはそれに入る予備的な教えか、実相の一部を説かれてをるのであります。
 諸法というは、諸は一切の法を一言に抑へて申すのであります。万法とも申してをります。法といふのは如何なるものでも、そのものを全体的に抑へていふ言葉であります。
 今日、「法と」いひますと「法則」といふやうに用ひられてをりますが、仏教で法といふは、法則ばかりでなく「一切のものを通じてそのものの全体」を申すのであります。それで此の法を分別して物質と精神、現象と実在、情と非情、流転と還滅(げんめつ)、過去と未来などと分けるのであります。しかしその様に分けたからといって、それは一応の分別でありまして、そのまま実相ではないのであります。

 

 全体はその分別以前のもの、若(もし)くは分別を総括したところにあるのであります。それを実相といふのであります。
 扨て空仮中の三諦(さんたい)でありますが、此れは諸法の実相を説いた教えであります。諸法は上の如く種々分別せられますが、法自体には空仮中の性徳があって種々に変転するのであります。
 三諦の諦といふは、審諦すなわち「つまびらか」とか「あきらか」といふ義であり、また諦観といへば十分に実相を見ることであります。仏の悟りの世界に於ける「あきらかな真実の理」を諦といふのであります。空仮中は諸法に本来法爾に具足する天然の性徳であります。此れを三諦といふのであります。
 先づ仮諦から申しますと、仮とは一切の諸法は仮に因縁によって和合してをるものでありますから、之れを「仮」といふのであります。即ち仮和合のことであります。空諦とは凡夫は此の仮和合の諸法を実有なりと考へてをりますが、実際には仮和合のものであるから空といふのであります。此の空であり乍(なが)ら、仮和合といふことを具へてをります。そのところを「中」と申すのであります。此の空仮中を如何に理解するかといふことはなかなか難しい問題で、経に於ても其後の人師に於ても、此れを正当に理解せしむべく力を注いでをられるのであります。

 

 空仮中の三諦に於て「円融の三諦」といふのが、至極の教えであります。円は円満で「偏」に対する言葉で、欠けることのなく、かたよってもゐない全体といふことであります。融は「とらかる」でありまして、全体のそのままがとらかつてゐることであります。
 凡そ仏教に於ては此の円融の三諦を説くのを目的としてをりますが、俄(にわか)には理解することが困難でありますので、その前提とし析空観(しゃっくうかん)や体空観を説き、また真俗の二諦や隔歴(きゃくれき)の三諦を説かれたのでありまして、それが法華経以外の経教であります。

 

 最初、一切のものは実有である、不変常住であるといふ考へ方を破するために、「析空(しゃっくう)」を説いて一切のものを分析してみれば、何一つとしてそのものの実体は無いと教へられたのであります。即ち我空法有で、人は常住不変のものではなく、法だけが常住であると説くのであります。

 

 次に「体空(たいくう)」といふは、我法の二空を説き、法体も諸法は全体そのまま「空」であると説かれるのであります。而(しか)して次に諸法は空でもなく、有でもない、その二辺をはなれた中間にあるといって、即ち但中(たんちゅう)の理を説かれてをるのであります。此れを隔歴(きゃくれき)の三諦といって、空と仮と中と格別にして融即(ゆうそく)してをらず、中は空と仮と、別に立てられてをるのであります。
 かくて最後に円融の三諦でありますが、此れは、空・仮・中の三諦は各々、また三諦を具するとして相即を説くのであります。即ち三即一、一即三といひ、不縦、不横といって縦や横に並ぶのではないといふのであります。若し空といへば一切がそのまま空、仮といへば一切がそのまま仮、中といへば一切がそのまま中であるといふのであります。それを即空、即仮、即中と申すのであります。今此れを図にすれば、次の如くであります。

 

 此の円融の三諦は、正しく領解することもまた説き表はすことも難しいのでありまして、故に此れを非有、非空、亦有、亦空とか、また百非といって有に非ず、空に非ず、非有に非ず、非空に非ずとして百の非をつけても言ひ表はせないなどといひ、空に非ず仮に非ず、中に非ず即空、即仮、即中などと申し、不可思議境といふのであります。
 かように思議することは難しく諦理として会得も容易ではないので一心三観といふことがいはれています。此れは慧文の唱へたところであります。我々が自分の心を観ずると有るかと思へば無く、無いかと思へば有る、無に非ず、有に非ず、しかも有であり無である。これを観ずれば実相を領解することができるといふのであります。
 この一心三観を更に大成したのが天台大師の一念三千であります。しかして此が理観であるのに対し、事観を立ち、直ちにその境に衆生をして達せしめられるのが日蓮大聖人の三大秘法であります。                  (昭和29年6月 大白蓮華誌)

 

 

毎月の行事

 

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第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

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            19:00

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