広宣流布に向かって

 

 広宣流布(こうせんるふ)は、ご本仏・日蓮大聖人の御遺命であり、日蓮正宗の歴史・750年の悲願として、日蓮正宗僧俗が一瞬たりとも忘れてはならない大目標です。

 

 日蓮大聖人は、さまざまな御書に、数多くの広宣流布についての御指南を残されています。今はその一部を挙げれば
 「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内に八万の国あり、其の国々に八万の王あり、王々ごとに臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり」(撰時抄 御書837)
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄 御書666)
等の文のように、大聖人の大慈大悲の大確信を拝することができます。また第二祖・日興上人は
 「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」(御書1884)
と烈々たる広布への信念をもって、未来の弟子・信徒たちである私たちの信行をも激励されているのです。

 

 広宣流布とは、王法である世間法(世の中の法律や道徳、人々の価値観や慣例)と仏法である出世間法(仏の悟りに基づく人間として生きるべき最高の方途を教えるもの)の冥合(一体化・融合)であり、これは仏法の力によって国土の安泰や人心の大霊化・妙法化にほかなりません。ですからこの広宣流布という大事業は、法華経宝塔品の六難九易の難事にも明らかなように、容易に達成することは難しいのです。第三祖・日目上人をはじめ大石寺御歴代上人は、身命をなげうって国主への折伏や大石寺を中心とする日蓮正宗の維持運営、大聖人の教えの興隆と折伏弘教に挺身されてきました。しかし、広宣流布を進めることは難事中の難事であるゆえに、いまだその時を得てはいません。しかしながら大石寺には、その人類の大理想実現のため、本門戒壇の大御本尊を根源とする唯授一人の血脈相承の正義が、脈々と耐えること無く正しく伝えられており、かならずこの大御本尊への信心を基として、広宣流布は実現されるのです。

 しかし、長年にわたって国家民衆を惑わしてきた邪宗の害毒はいまだ、この世から一掃されず、ちまたには様々な偏った思想、間違った信仰が渦を巻いています。このような迷い・苦しみが充満する社会では、価値観の多様化が指摘されると同時に、善悪の基準が不透明になってしまっています。個人主義的・排他的な独断が助長される半面で、生命の軽視・蔑視の風潮はいよいよ強まりつつあることは、最近立て続けに発生している凶悪事件の例を挙げるまでもありません。まさにこうした世の中こそ、仏陀が預証された「悪世末法時代の混乱」の様相、そのものといえます。

 

 このように、たとえいまだ謗法の宗教・思想が多くはびこっているとはいっても、大聖人の御金言はけっしてむなしいものではなく、必ずや私たちの信行実践のもとに、一層の進展があって、広布達成の機運が巡り来る事を信ずるものです。
 衆生は無辺に存在するとはいっても、そうした数限りない人々を導いていこうという大願を発し、自行化他に邁進することこそ、日蓮正宗僧俗の基本的な信念です。仏道は無上で極め尽くすことは難しいとはいっても、その仏道を探求し続けようとの道念こそ大切です。
 日蓮大聖人の仏法は、貴賤・賢愚・男女の差別などを一切排除し、純一無二の信心によってただちに即身成仏の大利益を確約されている直達正観の大正法です。この妙法を除いては、すべての人が現世では安穏となり、後生には善処に生ずるという大利益を得る道はぜったいにないのです。

 

 私たち日蓮正宗僧俗は、時の御法主上人猊下の御指南のまま、本門戒壇の大御本尊への絶対の信心に立脚して、広宣流布の成就を確信し、一致和合して異体同心に折伏弘通の大道を堂々と歩んでいきましょう。

 

 ※上記文章は、『日蓮正宗要義』中「広布への願業」の文章に、筆者が一部手を加えたものです。

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

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