幸福になるための信心    真実の幸福とは何か?

 

 末法に生を受けた我々が、過去世より背負ってきた様々な謗法罪障を消滅し、命の奥底から、煩悩を浄化していく方途について、日蓮大聖人は

 

「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異り、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法抄 御書一五九四)

 

と、自らの心を磨く唱題行に止まらず、かならず折伏を行じていく南無妙法蓮華経の信心。それによってこそ、私たち自身が生命を奥底から浄化し、煩悩即菩提の功徳を成就していく唯一の道であると教えられています。

 

 ですから、皆さんは、「折伏は日蓮大聖人の仏法の命である」と、ご住職様のご指導などによって、よく耳にされていることと思います。しかし、なかには、折伏の大切さはわかるけれども、なんとなく、「この信心は絶対だ」とは言い切れるほど、そこまで確信が持てていない。なんとなく「信心しない?」と言ってみたところで、説得力が具わらない。あるいは、子どもたちに「信心しなさい」といって、「なんで?」と言われ、うまく理由が説明できないで、「いいから、やんな!」では、話にならないと思うのです。

 

 

 そこでまず我々が、折伏していく上で「幸せ」とは何か、ということを考える必要があるのではないかと思います。

 

 我々の周りには、お金があることが「幸せ」と考える人もいます。家族が仲良し、それが幸せという人もいる。健康こそ幸せの絶対条件だと考える人もいれば、愛する人と一緒にいられるだけで幸せと思う人もいるでしょう。「幸せ」の内容、人それぞれみんな違うのです。

 

 ですから私たちが

 「幸せになれるから、一緒に信心しよう」

と折伏しても、

 「いや、私は今、幸せですから、信心はいりません」

となってしまうのです。

 

 そこで考えるべきことは、お金がある。あるいは、家族が仲良し、健康など、それらは幸せの一つの条件ではあるかもしれませんが、残念ながらそれらは、永遠のものではないということです。

 

 たとえば、家族が仲良し、それさえあれば幸せだと。でも、いつかは順番に死んでいきます。「家族」だけが幸せの絶対条件だというなら、家族の誰かが亡くなってしまえば、もう、その人の幸せは終わってしまうのです。「健康なことが幸せ」。これだって、生身の人間である以上、誰でも病気をするのです。すると病気になれば、もうそれで幸せでは無くなってしまいます。

 

ですから私たちは、もう少し、深く、幸せということについて掘り下げていく必要があると思うのです。

 

 

 

 キリスト教などでは、幸福は、個々の人間の努力で、どうにかできるものではなく、神様からの恵み(恩寵)によってのみ、幸せは得られると教えます。

 

これに対して仏教は、まったく逆で、幸せは、自分自身の命の中に見いだしていくもの。どこか遠くからやって来たり、誰かから貰うのが幸せなのではなく、自分の中に自分でみつけていくものである。それが仏教の立場です。

 

 

 時に「自殺」という大変悲しい姿があります。最近は、少し減ったとはいいますが、それでも中学生・高校生といった若年層の自殺は増えているそうです。そんな本当に悲しい、気の毒なお子さんは、どのような思いをしているかというと、イジメを受けたり、いろんな悩みを抱える。それが引き金になったとしても、最後には、他人に対する恨みで死んでいく人は、ほとんどいないというのです。他人を恨んだり、仕返しのために、自ら命を絶つのではなく、ほとんどの子どもが

 「自分は生きている価値のない人間なんだ」

 「死んだ方がいいんだ」

と、生きる価値、目的を、何ひとつ見つけられない。そうした絶望のなか、亡くなってしまうというのです。なんとも、やりきれない。気の毒な姿ではないでしょうか。

 

 私たちはよく、

 「この信心をすれば、幸せになれますよ」

と言いますが、厳密に言えば、

 「正しい信心をすれば、必ず最高の幸せを見つけられますよ」

と。

 「生きていく価値。自分にとっての、本当の幸せをみつけていくための信心 なんですよ」

と言うことだと思うのです。

 

 

 今の世の中の人はたいてい、お寺や神社で、お祓いしてもらって、ラッキーなことをあてにする。それが信仰なんだと考えているようです。ですから、逆にそれに反発して、

 「信仰なんかで、幸せになるなんてウソだ」

とか、

 「信仰しなくたって、幸せな人はたくさんいるじゃないか」

と、そういう信心に対する間違った認識を持つ人が、多くなってしまうのです。

 

 そうではなくて、

「私にとっての幸せと、あなたの幸せは違う」

「だから、あなた自身が、最高の幸せ、生きがいを見つけていくこと」

「この信心は、それを見つけるための羅針盤なんだ」

と。あるは、皆さんも経験があると思いますが、病気の方を励ましながら折伏してみると、

「信心したら病気が治りますか?」

と言われて、

 

「治らなかったらどうしよう」

と弱気になって、それ以上何も言えなくなってしまったと。私も、やるせない経験が、過去に、いくつもあります。

 

 しかし、よくよく考えてみますと、私たちは、お医者様ではないのですから、相手の方が、どの程度の病状なのか。今後、どうしていけば治るのか、本当に治らない病気なのか、そういったことなど、わからないのです。失礼な言い方かもしれませんが、事故で体の一部をを失ってしまった。しかし、信心がすばらしいからといって、失ったものを取り戻すことは、それは絶対にできないわけです。それを

「治らなかったら、責任とれないから、折伏できない」

ではないと思うのです。

 

 これは、六根清浄のための信心だと。お題目を唱えて我々自身の六根を浄化していく。自分の目で、本当に正しいものを見極めていく力を身につける信心なんだと。たとえ我が身に障害があったとしても、絶望の中を日々を無為に過ごすのではなく、明日への希望を、心の目をもって見極めることが

 

できる。この信心は、かならず生きる力になっていくんだと。聞く耳もそうです。自分をだまそうとする悪意の言葉と、自分にとって為になる善意の言葉を、きちんと聞き分ける。そういった耳をもつための信心。

 

 あるいは、短気な性格で、すぐにカッとなってしまって、自分の人生、今まで、ぜんぶ、ぶち壊してきてしまった。そういう修羅の命、怒りっぽい性格、そういった弱い心を鍛え直すための信心なんだと。

 

 だからこそ、今、特に困っていなくても、若い人でも年配の方でも、誰もが必要な信心なんだということ。もっといえば、自分よりも弱い立場の人を助けてあげられるような、そんな人間に成長するための信心なんだと。そのために命を磨く南無妙法蓮華経の、この大聖人様の信心であると、私たちはまず自分がしっかりと確信を持ち、それを、そのまま伝えていくことが折伏になっていくと思うのであります。

 

 どうぞ、皆様には、ご命題達成のために、まず、我が身を正す修行をきちんと行ない、その溢れる功徳の喜びをもって、一人でも多くの人が、正しい仏法のもと正しい人生を歩めるよう、折伏に、いよいよご精進されますよう念願申し上げる次第でございます。           以上

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info