総本山法話(平成28年2月)                 

                            妙通寺住職 細井道迅
  「地涌の眷属としての使命を感じ 折伏に挑もう」
 みなさん、こんにちは。本日は足下の悪いなか総本山へのご登山、誠にご苦労様です。命により、少々お話を申しあげます。

 日蓮大聖人は御書に、
  「煩悩(ぼんのう)とは見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑なり。結業(けつごう)とは五逆・十悪・四重等なり」(御書1208)
と仰せになっています。
 今、我々を取り巻く世相を見渡しますと、世界中で民族や宗教対立による紛争(ふんそう)が後を絶たちません。身近な国内でも、悲惨(ひさん)な事件・事故が多発しています。あるいはスポーツ選手や有名な俳優に見られるような薬物依存者の増大。オレオレ詐欺(さぎ)にいたっては被害総額が毎年、うなぎ登りです。それ以外にも、年金問題やマイナス金利問題。また、世界的に食糧不足が深刻化するなかで、日本では、「消費期限が切れた」というだけで、まだ食べることができる食品さえ、大量に廃棄されるという現実。こうした我々の振るまい、社会の有り様を見れば、近い将来、こんな世界は必ず破綻(はたん)します。特にまた、最近の近隣諸国との軋轢(あつれき)や世界的反グローバライゼーションの動き等を見るにつけても、先の世界大戦のような人類全体に対する重い総罰(そうばち)が、我々や子供、孫の世代までをも巻き込んで、きっと起こるに違いありません。
 こうした世の乱れを、何とか正していかなければ大変なことになる…。世の学者や政治家、指導者たちがあれこれ知恵を出し合っているようですが、一向にその根本的な解決策~世の中の濁りを浄化する有効な手段を見い出せずにいるのが現状です。

 さて仏法、殊(こと)に法華経においては、社会や人心の乱れの元凶(げんきょう)は、社会の主体者たる人間の、その心に具わる「煩悩(ぼんのう)」の働きにあると指摘しています。この煩悩(ぼんのう)が、謗法(ほうぼう)の毒気(どっけ)により増長し、その結果、人の振るまいを悪化させて世の中全体を狂わせていく。同時に国土世間に悪影響を与え、天変(てんぺん)や災害が次々ともたらされているというのです。日蓮大聖人が
  「衆生の心けがるれば土もけがれ…浄土と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔(へだ)てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」'     (一生成仏抄 御書46)
と如実(にょじつ)に、諸法(しょほう)の実相(じっそう)を明かされる所であります。

 

 ここで、その煩悩(ぼんのう)について少し考えてみますと、大きく三つに分けることができます。即ち見思(けんじ)惑・塵沙(じんじゃ)惑・無明(むみょう)惑の三惑です。この三つの惑いが我々の命の奥底(おうてい)に本然(ほんねん)として具わり、それが盛んに活動することで我々の心・命は濁(にご)り、その結果、正しく物事を判断できなくなって、人々を悪業(あくごう)へと誘(いざな)うのです。なかでも「見思惑」は、日常生活に密接にかかわってくるものとされます。
 「見思惑」とは、見惑(けんわく)と思惑(しわく)のことで、見惑を簡単に言えば、物事を正しく見ることができず(五利使)、その結果、間違った心や考えを起こす(五鈍使)ということです。もうひとつの思惑は、やはり物事を見たり、外部からの働きかけによって起こる、本能的・感情的な妄想(もうそう)のことであります。
 たとえば、誰かから忠告を受けたとき、本当は自分が悪いのに、「何ひとつ俺は悪くない」と考え、かえって忠告してくれた人を逆恨(さかうら)みする。それはまさに見惑という煩悩の仕業です。その結果、普通はそこまで考えないけれども、逆恨みの心により、忠告してくれた人を殴(なぐ)ってやろう、との心が生ずるのが、思惑という煩悩の働きであると言えます。

 こうした貪瞋癡(とんじんち)の三毒をはじめ、さまざまな煩悩が基となり、人は悪業を積んでしまうわけです。すると、その結果、自業自得。逃げようもない苦しみに悩まされる事なります。その苦しみが新たな煩悩(ぼんのう)を生み出し、それが引き金となって悪業を重ね、苦しみがいよいよ増していく。こうした悪の連鎖(れんさ)に、がんじがらめに縛(しば)り付けられた境遇(きょうぐう)こそ、現代社会に生きる我々の姿です。
 ですから、この苦しみの連鎖を断ち切り、眼前にある悩みを解決しようとするならば、まず、根源にある煩悩を、なんとか対処していかなければなりません。
 もちろん大聖人が
  「煩悩を断ぜず五欲を離れず、諸根を浄むることを得て諸罪を滅除(めつじょ)す」                            (御書598)
と、普賢経の文を引用されているように、御本尊を一心に持っていけば、煩悩を一つひとつ断じていかなくても、その身そのままで成仏できる、「煩悩即菩提(ぼだい)」という妙法の不可思議な功徳を示されています。
 しかし、だからといって「やりたい放題」振る舞っていては功徳を積むことはできません。折伏へ出かけて行った、その帰り道に、泥棒(どろぼう)に入っていては、何にもならないわけです。
 御隠尊日顕上人もかつて、
  「今日の異常なほどに複雑な社会のなかでは、何が善で何が悪か、実に判りづらいのです。(乃至)そのようななかでも、本当に正しく善を見、悪を見、そして自らの心を浄くしていくということが大切だと思います」
                       (大日蓮 平成9年3月号 68頁)
と仰せでありまして、謗法を捨てて正しい仏法に帰依し、煩悩に汚れた命を浄化していくべき、その信行の大切さを示されている所であります。

 

 ところで、仏道修行の目的は「成仏」することです。成仏とは「仏に成る」と書きます。我々のような人間が、日蓮大聖人のような仏様と肩を並べるなどは恐れ多い事ですが、やはり信心の、御手本となるのは「大聖人のような尊い徳を身に具え、自在の境界(きょうがい)を得ていく」。これが我々の信心修行の目指すところであります。
 そして、その目指す仏様の身には、三つの功徳身が具わると説かれます。一つは法身(ほっしん)、そして報身(ほうしん)、最後に応身(おうじん)です。皆さんも勤行の際に観念すれる大聖人様の讃嘆文(さんたんもん)に「一身即三身。三身即一身」とある、あの三身です。
 宇宙法界に遍満(へんまん)する真理を体とする功徳身が法身、そして、その妙法の法則・法理を悟り照らす智慧(ちえ)身としての報身、さらに法を悟って功徳を成就した上においては、他の人を救おうという慈悲の心が、かならず顕わてくるのであり、その慈悲の現われとしての応身。この三つが、日蓮大聖人お一人の身に、すべて具(そな)わっているということです。
 なかでも、智慧身である報身と、慈悲身である応身の功徳を、我々にあてはめるならば、法を悟る智慧(ちえ)を確かなものにするためには、折伏によって他を救っていく功徳の蓄積(ちくせき)が不可欠となります。また、「折伏させていただきたい」と願う心は、仏法に対する智慧を深めるに従って、さらに強いものとなります。
 こうして、一人ひとりがご本仏・大聖人に倣(なら)い、智慧と慈悲心を最大限に高めていくことによって、誰もが必ず、一生のうちに成仏の功徳を成就していくことができるとされるのです。
 このように、日蓮大聖人のもと、志をもって妙法を実践する人を、末法においては「地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)」あるいは「その眷属(けんぞく)」と説かれるのです。そして、この菩薩の目標は、何よりも、他の人々を正しい仏法へと導き、救済することなのです。「自分だけではなく、皆で幸せになっていく」という心は、人々が共に助け合い、分かち合い、互いに幸福を願いあえる社会、つまり広宣流布をめざしていく尊い理念(りねん)であり、その実現に向かって前進していくのが、地涌の菩薩の使命といえるのです。だからこそ、
  「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異り、自行(じぎょう)化他(けた)に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」              (三大秘法抄 御書1594)
と大聖人が仰せのように、自らを磨く修行に止まらず、かならず折伏を行じていく南無妙法蓮華経の信心こそ、仏法の真髄(しんずい)であると教えられているのです。よって、
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」      (諸法実相抄 御書666)
と仰せのように、宿縁(しゅくえん)あって大聖人の妙法を信ずることができた以上、我々もまた、地涌の菩薩の一分、乃至眷属としての果たすべき使命を担っていることを知るべきであります。

 そこで、我々が地涌の菩薩の一分として、なすべき修行について、少し具体的に考えてみたいと思います。
 菩薩の修行に、六波羅蜜行があります。「波羅蜜(はらみつ)」というのは「完成する」とか「到達する」ということを意味します。ですから、六つの大切な修行を実践することで、我が生命を浄化し、菩薩は仏の境界へと近づいていくという事です。

 

 第一番目の修行は布施(ふせ)行です。これを実践すれば、慳貪(けんどん)、「自分だけが得をすればよい」という偏(かたよ)った考えを消滅させることができます。御本尊への御供養はもとより、困っている人を助力していく。他の人々に尽くすことも布施の一分と言えます。

 第二の持戒(じかい)~戒律を持つ。末法においては、御本尊を守り、謗法(ほうぼう)を寄せ付けないとの戒律を持つことで、一切の戒律を守りきる功徳を得て、破戒という煩悩(ぼんのう)を浄化するのです。

 第三の忍辱(にんにく)。忍辱とは、「侮辱(ぶじょく)されても、堪(た)え忍(しの)ぶ」ということで、瞋恚(しんに)という煩悩。生まれながらに怒りっぽい人、短気な人。それによって、なかなか仕事が続かない。人付き合いがうまくいかない。そういう煩悩に苦しむ人は、まさに、折伏を実践してみるのです。折伏は、難信(なんしん)難解(なんげ)の妙法を説いて歩くのですから、相手の人からは誤解されたり、悪口を言われたりすることも多いものです。そうした苦々(にがにが)しい経験を「自分と家族の幸せのため」、そして「広宣流布のためなんだ」と、ぐっと我慢(がまん)していくことにより、その短気な性格が根っこから癒(いや)やされていくのであります。

 第四の精進(しょうじん)行では、懈怠(けだい)、サボり癖の強い人。そういう人は、より高見を目指し、厳しい環境をみずから求めて、自分を鍛える修行を行なう。やはり修行ですから、多少の「がんばり」は必要です。我々は楽な道ばかり求めていると、どんどんエスカレートして、やがて、どんな時も楽な方ばかりを選ぶようになってしまいます。逆に、少し我慢したり、努力しなければ手が届きそうにない目標に向かって、チャレンジできる人は、必ず成長する。また、それまで“当たり前”だと思っていた日常が、いかに自分は恵まれた環境にあったか。どれだけ多くの人に支えられて生きて来れたのかということに気づかされ、あらゆる物に対する感謝の念が生まれます。より苦労する道を選ぶことで、むしろ、思いもしなかった心の財(たから)を得ることができるのです。だから、どうしても、すぐに物事に飽(あ)きてしまう。長続きしない、さぼりやすいという弱い心が、自分にはあるなと自覚する人こそ、時に、歯を食いしばってがんばってみる修行も必要であります。そして

 第五番目が、禅定(ぜんじょう)の修行。これは、落ち着かない、心が定まらない。そういう人は、禅定といって、私たちの修行にあてはめれば、御本尊の前に落ち着いて座る。最初は、なかなかじっとしていられなかったのが、我慢(がまん)しながら勤行を欠かさず行なった。そういう着実な積み重ねにより、やがて、一時間、二時間と、心落ち着けて真剣に唱題できるようになる。これは、同時に、どんな仕事に携わるにしても、ちょっとやそっとのことでは動じない。悪意の言葉に流されない。そういう腹(はら)の据(す)わった生き方ができるようになるものでして、これはまさに禅定の修行の結果、得られる果報(かほう)と言えます。
 そして最後の第六番目が智慧(ちえ)を持つということ。成仏を妨(さまた)げる煩悩(ぼんのう)のなかで、特に大きなものが愚痴(ぐち)です。愚痴とは、「愚痴っぽい性格」の「愚痴」ではなく、「因果の道理をわきまえない」ことです。原因があって結果がある。今、自分が苦しいのは、誰のせいでもない。自分の過去の振る舞いに原因があるんだと。それがわからないと、他人のせいばかりにして、いつまでたっても、問題を解決する糸口さえ見つけ出すことができないのです。そういう愚(おろ)かな姿を「愚痴」と仏法では言うのでありまして、その「愚痴」という煩悩は、深い悟りの智慧をもって仏の教え、法の道理をよく理解し、悟っていくことで解決できるとされます。
 では、深い智慧がない。難しいことはよく分からない、我々はどうしたらよいかといえば、御本尊に対する強い信心を持てば良いのです。むずかしいことは分からないけれども、御本尊様は絶対だという、強い一念心が、不思議な智慧となり、因果の道理を身をもって理解できるようになる。「ああ。これまで何十年と辛かった、背負ってきた罪障(ざいしょう)とう重い荷物。それをなんとかしたいと、ずっと願ってきたけれども、その一番の原因が、実は自分のワガママな心にあったんだと。それに、ようやく気づくことができた」と。まさにこうした体験こそ、ご仏智(ぶっち)をいただく、信心を智慧に代える、智慧波羅蜜という菩薩の修行の結果であります。
 『一生成仏抄』に
  「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」               (一生成仏抄 御書46)
とあるように、末法今日の根本の修行は、妙法唱題につきるところであります。そのうえで、さらに我々は、こうした菩薩の六度という修行にも心していくところ、必ず人間として大きく成長し、信心をより深めることができるわけであります。

 御法主日如上人猊下は、
   「末法の題目は自行化他にわたるもので、自らも救い、他をも救わんとするものであります。(乃至)日寛上人は「観心本尊抄文段」に、『自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり』(御書文段二一九)と、唱題行の功徳が満ちるところに、必ず折伏の実践が伴うことを御指南あそばされています。」 (平成22年1月度 広布唱題会の砌)
と仰せです。
 今、我々がこの信心で成仏を目指していく。まず、家族の健康、自分の幸せのために、お題目を唱えている。お寺に参詣している。こうしてお山にも、台風が近づくなか、はるばる足を伸ばして大御本尊様へ信心の赤誠(せきせい)を尽くしている。これらは最高に尊い事であり、本日の皆さんのお姿は、まさに日蓮正宗信徒の鏡と言えましょう。その上で、もう一歩深く踏み込んで、地涌の菩薩の眷属としての自覚を持てるかどうか。使命を感じて、折伏が実行できるかどうか。

 折伏は、「叱(しか)られるから、褒(ほめ)められるから」するのではなく、自分自身が、この最高の信心に出会った。その福徳に包まれた日々を無為(むい)に過ごして後悔(こうかい)しないため、自分が本当に納得した信心と人生を歩んでいくため。そのためにこそ、今、我々はもう一度、「地涌の菩薩の一類なんだぞ」と大聖人が励ましてくださる、その尊い御言葉を拝して、自分にしかできない折伏。自分しか救えない人を、見つけていくことが大切なのではないでしょうか。
 折伏の結果が、うまく出なかったからと言って、責任など取る必要はないのです。ただ、私たちの周りにいる人に、大事なことを言えばいいだけのことなのです。「南無妙法蓮華経以外に、幸せをみつけていく道はありませんよ。一緒にその道を歩いていきましょう」と伝える、ただそれだけでいいと思うのです。
 どうぞ、皆様には、まず、我が身を正す修行をきちんと行なって、確固たる功徳を蓄(たくわ)えていきましょう。そしてその功徳の喜びをもって、「自分たちでご命題を達成していくんだ」との主体的な心を持って、折伏に挑戦していかれますよう念願いたす次第でございます。
 以上、本日のお話とさせていただきます。ご静聴、ありがとうございました。

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info