四種の四諦 本門の約身約位 日顕上人 (妙法七字拝仰 上 118㌻)

 

 「無作」という語は、作ることが無いという意味です。天台は釈尊より迹門の付嘱を受け、本門の付嘱はありませんので、この無作について蔵通別円の教理を判ずる「円の智慧」を説き示すことに使いました。

 ここで、仏教全体の修行を含む理として、四つの四諦について一言します。

 すなわち四諦とは、迷いの因果としての苦(果)と集(因)、悟りの因果として滅(果)と道(因)を示す法門です。

 その四つとは、一に三蔵小乗教は、三界六道の迷いの因縁は生滅の法であるという「生滅の四諦」を説き、二に小乗通教は六道の迷いの因縁はそのまま空であり、実体はないという修行の「無生の四諦」を説き、三に大乗の別教は十界の理が実際にあらゆる迷悟の相となり、この無量の迷いを消滅する修行をなすという「無量の四諦」を説くのに対し、四に真の大乗の理を説く円教では、あらゆる事物の当体に他の一切の迷悟を具えるので、特に空のみを悟ったり、また迷いの事相を消滅するための造作の修行をする必要がない。事相(仮)に空理と中理が円満に具わるので、理に達すれば迷いや苦しみが特に作ることなく(無作)悟りに入ると説きます。(編者註 無作の四諦) しかし、この迹門の実相の理を悟りきるのは難しく(編者註 天台の理の一念三千の観念観法を通じて悟りを開くのは難しい)、直ちに悟りの実体を教えられる本門の教法に及びません。

 

 そこで無作の語を、天台は迹門の実相の上から仏の智慧について右の四つの教えにおいて説きましたが、妙楽はさらに一歩進め、本門の立場から、本迹は約身約位と喝破しました。これは、本文の教えに入ると、無作という円の理は一転して、仏の身と位とにおいて判ずるということです。つまり、造作することがないという円の体は、迹門では智慧による理の詮索ですが、本門では、仏身の上に当てはめて判ずるのです。

 この上から、一代仏教を見ると、釈尊の一代は成道以来、三十二相の仏身を示されていますから、相好を作った仏、つまり方便の仏としての有作の三身であります。これに対して、相好のない無作の仏とは久遠元初即末法の仏、すなわち日蓮大聖人様であります。このことを大聖人様自ら、日興上人へ

 「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(御書1765㌻)

と教示されました。

 

毎月の行事

 

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※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

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第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

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