~年表でみる~

 

 日蓮大聖人のご生涯と、広宣流布の礎

 

                             やさしい概説

 

 

◇貞応元(1222)年

 2月16日 ご誕生

 日蓮大聖人、安房国・片浦(現在の鴨川市)にご誕生。幼名は「善日麿」 

 父は貫名次郎重忠、母は梅菊。

 

 7月23日 鎌倉大地震   

 8月 2日 大彗星出現

 

 

◇貞応二(1223)年 大聖人2歳

 5月 幕府、土御門上皇を阿波に遠流

 

◇元仁元(1224)年 大聖人3歳

 1月 親鸞、『教行信証』を著作。

 6月 幕府、 祈雨の祈祷を修せしむ  

 12月 幕府、 疫病平癒を祈願せしむ

 

 

◇安貞元(1227)年 大聖人6歳

 3月    鎌倉大地震   

 4月22日 京都・大内裏焼失

 

◇寛喜3(1231)年 大聖人10歳

 春 大飢饉   

 10月11日 土御門上皇 阿波に崩御。

 

◇貞永元(1232)年 大聖人11歳

 9月 彗星出現

 

◇天福元(1233)年 大聖人12歳

 大聖人、安房・清澄寺に登る。

『善無畏三蔵抄』

「日蓮は安房国東条の郷清澄山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てゝ云はく、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき。其のしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ」(平成新編御書 443)

 

 

◇嘉禎3(1237)年 大聖人16歳

 出家得度

 大聖人、道善房のもと正式に出家得度し、「是生房蓮長」と名乗る。

『妙法比丘尼御返事』

「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に、一つの不思議あり。

 我等がはかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし。いづれもいづれも心に入れて習ひ願はゞ、生死を離るべしとこそ思ひて候に、仏法の中に入りて悪しく習ひ候ひぬれば、謗法と申す大なる穴に堕ち入りて、十悪五逆と申して、日々夜々に殺生・偸盗・邪淫・妄語等をおかす人よりも、五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候やうなる智者聖人の、一生が間に一悪をもつくらず、人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思ふ程に、十悪五逆の罪人よりもつよく地獄に堕ちて、阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬ事の候ひけるぞ」(平成新編御書 1258)

 

 

◇延応元(1239)年 大聖人18歳

 2月22日 後鳥羽上皇、流罪先の隠岐に崩御  

 12月30日 彗星出現

 

◇仁治2(1241)年 大聖人20歳

 2月7日 鎌倉大地震

 

◇仁治3(1242)年 大聖人21歳

 大聖人、比叡山遊学 現存最古の御書『戒体即身成仏義』を著す。(平成新編御書 1)

  9月12日 順徳上皇 流罪先の佐渡にて崩御

 

 

◇寛元3(1245)年 大聖人24歳

 7月26日 京・大地震

 

◇寛元4(1246)年3月8日 大聖人25歳

 第二祖日興上人、甲斐国大井荘鰍沢にご誕生。

 

◇建長元(1249)年 大聖人28歳

 2月1日 京・大火 閑院内裏焼失

 

◇建長3(1251)年 大聖人30歳

 2月10日 鎌倉大火

 

 

 

◇建長5(1253)年 大聖人32歳

 宗旨建立の内証宣示

 3月28日 大聖人、安房清澄寺にて、道善房など有縁の者数名に対して、宗旨建立の内証を宣示

『清澄寺大衆中』

「禅宗・浄土宗なんど申すは又いうばかりなき僻見の者なり。此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年三月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。或は所を追ひ出だされ、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を、今は見る日蓮が刀剣に当たる事を」(平成新編御書946)

 

 

 4月28日 立教開宗

 大聖人、道善房、東条景信ら大衆を前に、安房清澄寺にて立教開宗

『聖人御難事』

「去ぬる建長五年 太歳癸丑 四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年 太歳己卯 なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、

伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」 

 ※本抄では、27年目に本懐成就する旨が述べられている。大聖人出世の本懐である本門戒壇の大御本尊建立はこの御書の11日後のことで、大聖人の出世の本懐は大御本尊建立にあったことがわかる。

 

 大聖人、ただちに父母を授戒し、名を日蓮と更改。

  鎌倉・松葉ヶ谷に草庵を構える。

 富木常忍ら入信

 6月10日 鎌倉大地震

 

 

◇建長6(1254)年 大聖人33歳

 1月10日 鎌倉大火

 

◇康元元(1256)年 大聖人35歳

 8月6日 鎌倉大風・洪水・疫病大流行

 

◇正嘉元(1257)年 大聖人36歳

 2月10日 太政官庁焼失

 8月1日  鎌倉大地震

 8月23日 鎌倉大地震 鎌倉中の社寺 一宇も残さず倒壊

 11月8日 鎌倉大地震

 

◇正嘉2(1258)年 大聖人37歳

 日興上人入室

 大聖人、富士岩本・実相寺にて大蔵経を閲覧(立正安国論執筆の準備)

 日興上人、大聖人に謁見し、大聖人の弟子となる。伯耆房との名を大聖人より賜る

 

 2月14日 大聖人の父 妙日卒

 8月1日 大風雨

 

◇正元元(1259)年 大聖人38歳

 春 大飢饉・大疫病

 南条時光、出生(妙蓮寺過去帳)

 

 

 

◇文応元(1260)年 大聖人39歳

  5月28日 大聖人、『唱法華題目抄』を述作。(十大部御書 平成新編御書 217)

 

 7月16日 立正安国論 献上

 大聖人、宿屋左衛門入道を経由し、前執権で当時、幕府の最高権力者であった北条時頼に『立正安国論』を献ず(第一国諫)。

 『立正安国論』《五大部御書》(平成新編御書 234)

 《概要》

 原文は漢文で執筆されている。旅客(仏法の道理に無知な俗人)と主人(仏法の聖者)との10番問答の形式によって構成されている。

 当時、鎌倉では天変地異が打ち続いたが、ことに1257年(正嘉元)8月に発生した大地震はことに激烈を極め、幕府の枢要機関が集中していた鎌倉市中はほぼ壊滅した。大火災や疫病の流行などの災難もうち続き、民衆の困苦は極みに達した。こうした状況に鑑み、日蓮大聖人は、念仏等の時を逸した謗法を一刻も早く排除し、南無妙法蓮華経の正法を国中に立てることによって、真に国家の安泰、民衆の救済を叶えることができる旨を、時の権力者・北条時頼に上呈したのが立正安国論である。題名は、正法(しょうぼう)を建立して国土を安穏にするという意味である。本論の諫暁の趣旨が、かえって幕府の反感を買い、以後、大聖人は幾度となく幕等から強烈な迫害を受けることになった。「大聖人のご一生は、立正安国論にはじまり、立正安国論に終わる」と言われるように、本論には、大聖人仏法の根源である破邪顕正による国家安泰を実現すべきとの精神が如実に顕わされており、大聖人の代表作御書である。

 

 8月5日 諸国に大風被害

 8月27日 松葉谷法難  数千人の念仏僧らの襲撃により、大聖人の松葉谷草庵が焼き討ちされる。

 『下山御消息』

 「先づ大地震に付いて去ぬる正嘉元年に書を一巻注したりしを、故最明寺の入道殿に奉る。御尋ねもなく御用ひもなかりしかば、国主の御用ひなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したるぞと聞こへし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ」(平成新編御書 1150)

 

 11月6日 京都・朝廷ゆかりの醍醐寺が諸堂を焼失

 

 第三祖 日目上人ご誕生

 

 

◇弘長元(1261)年 大聖人40歳

 伊豆法難

 5月12日 大聖人、日興上人とともに伊豆配流

『下山御消息』

 「日蓮が生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ。されば人のあまりににくきには、我がほろぶべきとがをもかへりみざるか。御式目をも破らるゝか。御起請文を見るに、梵釈・四天・天照太神・正八幡等を書きのせたてまつる。余存の外の法門を申さば、子細を弁へられずば、日本国の御帰依の僧等に召し合はせられて其れになお事ゆかずば、漢土・月氏までも尋ねらるべし。其れに叶はずば、子細ありなんとて、且くまたるべし。子細も弁へぬ人々が身のほろぶべきを指しをきて、大事の起請を破らるゝ事心へられず。

 自讃には似たれども本文に任せて申す。余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。経に云はく「即ち如来の使なり」と。又云はく「眼目なり」と。又云はく「日月なり」と。章安大師の云はく「彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり」等云云。而るを謗法一闡提の国敵の法師原が讒言を用ひて、其の義を弁へず、左右なく大事たる政道を曲げらるゝは、わざとわざはひをまねかるゝか」(平成新編御書 1150)

 

 

◇弘長3(1263)年 大聖人42歳

 2月22日 伊豆配流赦免 大聖人、日興上人とともに鎌倉へ戻る

 

 

◇文永元(1264)年 大聖人43歳

 7月5日 大彗星出現

  秋頃 大聖人、故郷の安房に戻り、母の病気平癒を祈る

 『可延定業御書』

 「されば日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(平成新編御書 760)

 

 11月11日 

 小松原法難 

 大聖人、地頭・東条景信に要撃される。鏡忍房、工藤吉隆殉難。

 『南条兵衛七郎殿御書』

 「十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。

 第四の巻に云はく「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」と。第五の巻に云はく「一切世間怨多くして信じ難し」等\(云云\)。日本国に法華経よみ学する人これ多し。人のめをねらひ、ぬすみ等にて打ちはらるゝ人は多けれども、法華経の故にあやまたるゝ人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(平成新編御書 326)

 

 

◇文永2(1265)年 大聖人44歳

 大聖人、南条兵衛七郎(南条時光 父)の墓参のため、富士・上野の南条家に逗留

 

 

◇文永4(1267)年 大聖人46歳

 8月15日 大聖人母 妙蓮尼卒

 

 

◇文永5(1268)年 大聖人47歳

 1月18日 蒙古国牒状 鎌倉到着

 2月    北条時宗 蒙古の使を退く

 2月25日  幕府、蒙古調伏祈願を諸神社へ命ず

 4月13日  蒙古調伏祈願のため、伊勢大神宮へ勅使

 4月    幕府、蒙古調伏祈願を諸社寺に命ず

 

 8月21日 大聖人、蒙古よりの使者につき、宿屋左衛門入道へ、書を遣わす

 『宿屋入道許御状』 (日蓮正宗のお会式にて捧読される大聖人申状)

 「其の後書絶へて申さず、不審極り無く候。抑去ぬる正嘉元年 丁巳 八月二十三日戍亥刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘へたるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作して起こす所の災ひなり。

 若し此を対治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通之を撰し、正元二年 庚申 七月十六日、御辺に付け奉りて故最明寺入道殿へ之を進覧す。其の後九箇年を経て今年大蒙古国の牒状之有る由風聞す等云云。経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼の西戎を調伏すべきの人に当たり、兼ねて之を知り論文に之を勘ふ。君の為、国の為、神の為、仏の為内奏を経らるべきか。委細の旨は見参を遂げて申すべく候。恐々謹言。」(平成新編御書 370)

 

 

◇文永6(1269)年 大聖人48歳

 9月17日 蒙古より重ねて来牒がやってくる

  日興上人、波木井実長(身延地頭)を折伏

 

 

◇文永7(1270)年 大聖人49歳

 1月11日 蒙古船 対馬に至る

 

 

◇文永8(1271)年 大聖人50歳

 6月18日~7月4日 極楽寺良観 雨を祈るが失敗する(雨ふらぬうえ、暴風が吹き荒れる結果となった)

『種々御振舞御書』

 「良観が雨ふらさぬ事、つぶさに平左衛門尉にいゐきかせてありしに、或はわっとわらひ、或はいかり、なんどせし事どもはしげければしるさず。せんずるところは、六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして、日蓮にかゝれてふらしかね、あせをながしなんだのみ下して雨ふらざりし上、逆風ひまなくてありし事、三度までつかひをつかわして、一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか。いずみしきぶいろごのみの身

にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人々百千人あつまりて、七日二七日せめさせ給ふに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ。これをもって存ぜさせ給へ。各々の往生は叶ふまじきぞとせめられて、良観がなきし事、人々につきて讒せし事、一々に申せしかば、平左衛門尉等かたうどしかなへずして、つまりふしし事どもはしげければかゝず」(平成新編御書 1058)

 

 9月 極楽寺良観ら、大聖人が「幕府要人等に対して誹謗したり、諸大寺院を焼き払うよう扇動した」等として問注所に訴える。

『種々御振舞御書』

 「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人・良観上人等を頸をはねよと申す」(平成新編御書 1057)

 

 9月10日 大聖人、評定所に召し出され、平頼綱に見参

 

 9月12日 大聖人、平頼綱に書状を送る。

『一昨日御書』」 

 「貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す。是偏に身の為に之を述べず。君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり」(平成新編御書 476)

 

 9月12日 大聖人、平頼綱により捕らえられる。頼綱ら幕府要人の暴挙に対して、厳しく諫暁する。(第二国諫)

 『撰時抄』

 「文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向かって云はく、日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難と

て此の国の人々他国に打ち殺さるゝのみならず、多くいけどりにせらるべし」(平成新編御書 867)

 

 9月12日 竜の口の法難

 『種々御振舞御書』

 「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戍亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月よのやうにて人々の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。

日蓮申すやう、いかにとのばらかゝる大に禍ある召人にはとをのくぞ、近く打ちよれや打ちよれやとたかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。さてよあけばいかにいかに、頸切るべくわいそぎ切るべし、夜明けなばみぐるしかりなんとすゝめしかども、とかくのへんじもなし」(平成新編御書 1060)

 

 9月19日 蒙古 三度来牒

 10月9日 大聖人、御本尊(楊枝本尊)を顕わされる。

 

 10月10日 佐渡配流

  大聖人、日興上人と共に佐渡へ向け出発。

 11月1日 大聖人、佐渡・塚原三昧堂に入る。

 11月13日 両日並び出づ

 

 佐渡島にて阿仏房・千日尼、入信。

 

 

◇文永9(1272)年 大聖人51歳

 塚原問答

 1月16・17日 佐渡塚原で念仏者らと問答

『種々御振舞御書』

 「塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集まりたり。念仏者は口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失ひ、天台宗ぞ勝つべきよしをのゝしる。在家の者どもは、聞こふる阿弥陀仏のかたきよとのゝしりさはぎひゞく事、震動雷電の如し。(中略)

鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ。利剣をもてうりをきり、大風の草をなびかすが如し。仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。善導が柳より落ち、弘法大師の三鈷を投げたる、大日如来と現じたる等をば、或は妄語、或は物にくるへる処を一々にせめたるに、或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりけりと云ふものもあり。或は当座に袈裟・平念珠をすてゝ念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」(平成新編御書 1064)

 

 2月 開目抄を述作。(五大部 平成新編御書 523)

『開目抄』の概説 

 竜の口法難とそれに続く佐渡配流に対して、多くの信徒や弟子が不安と動揺の念を抱くようになり、退転するものが続出するようになった。踏みとどまった者であっても、何故に、法華経を実践する大聖人の身、このような受難が続くのかとの疑惑を懐く者も少なくなかった。これに対して大聖人は、受難こそ末法における真の行者の証であり、そのご内証は久遠元初の本仏であることを明かされたものが開目抄である。

 具体的にはまず、本抄の冒頭で、主師親の三徳を尊敬すべき意義を示し、次に儒外の三徳をあげ、つづいて内典の三徳を示されている。内典の三徳を顕わすなか、一代聖教の浅深を判じて熟脱の三徳をあげ、ついで大聖人こそ、真実の法華経の行者であることを明かし、その結論として、大聖人こそ下種の本仏として真実の三徳を具えられることを「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」との言葉をもって総結されている。また、「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ」の語は、大聖人の三大誓願として有名である。

 日蓮正宗総本山第26世日寛上人は、本抄は、一代の諸経の勝劣浅深を判じ、五段の教相を説いていることから、「教行証」のうちの「教の重」に配されている。

 日寛上人は『三重秘伝抄』に、当開目抄の「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘し沈め給えり」との御文について

 「『但法華経』の『但』の字は是れ一字なりと雖も意は三段に冠するなり。謂わく、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘沈なり云々。三種相対は文に在って分明なり。(中略)『日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候』等云々」(六槇抄 7)

と深く解釈されている。つまり、開目抄には、権実相対、本迹相対、種脱相対の意義が明瞭に説かれているのであり、日蓮大聖人が仰せの「第三の法門」とは、天台説示の三種の教相より一段、深く立ち入った仏法の淵源・久遠元初を指向するということである。

 開目抄の御真跡は、明治八年の身延山大火災の際に紛失し、第二祖日興上人の写本が最古のものとなっている。

 

 夏頃 大聖人、一谷へ移居。

 鎌倉より乙御前母子(日妙尼) 佐渡へ参詣

 

 

◇文永10(1273)年 大聖人52歳

 3月 元の使徒 太宰府来訪

 

 4月25日『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を述作(五大部 平成新編御書 644)

『観心本尊抄』の概説

 先の開目抄が末法下種の人本尊を顕わされるのに対して、当抄は末法下種の法本尊の意義を明らかにされるものである。法とは南無妙法蓮華経、人とは久遠元初の自受用身即日蓮大聖人のことである。開目抄が法即人を明かされるのに対して、観心本尊抄は人即法を明かされている。大聖人久遠元初の本地のご境界においては、法即人、人即法、人法一箇刹那成道と拝するのが、血脈相伝の正義であり、その御当体こそ、これより約5年ののち、弘安2年10月12日に御図顕あそばされる、大聖人出世の本懐・本門戒壇の大御本尊(大石寺に厳護)である。

 日蓮正宗総本山第26世日寛上人は『観心本尊抄文段』の冒頭において次のように示されている。

 「夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり。此の本尊に人有り法有り、人は謂わく久遠元初の境智冥合の自受用報身、法は謂わく久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即して是れ人、人に即して是れ法、人法の名は殊なれども其の体は恒に一なり、其の体は一なりと雖も而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。是れ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸く此の文底下種の本尊に帰せざる莫し。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多しとは是れなり。此れ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」(日寛上人 御書文段 189)

 

  5月 四条金吾、鎌倉より佐渡の大聖人のもとへ参詣

 12月 鎌倉・極楽寺良観の弟子らの訴えにより、佐渡の領主・武蔵前より大聖人の外護を禁ずる触れが出される

 

 

◇文永11(1274)年 大聖人53歳

 2月14日 幕府、大聖人の佐渡配流に対して赦免状を発する

 3月8日  赦免状 佐渡着

 3月13日  大聖人、日興上人とともに一谷を出発

 3月26日  大聖人、鎌倉着

 4月8日  大聖人、平頼綱に見参(第三国諫)

『高橋入道殿御返事』 

「四月の八日、平さえもの尉にあひたりし時、やうやうの事どもといし中に、蒙古国はいつよすべきと申せしかば、今年よすべし。それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし。たすからんとをもわしたまうならば、日本国の念仏者と禅と律僧等が頸を切ってゆいのはまにかくべし」(平成新編御書 889)

 

 4月12日 鎌倉に大風

『八幡宮造営事』

 「文永十一年四月十二日に、大風ふきて其の年他国よりおそひ来たるべき前相なり。風は是天地の使ひなり。まつり事あらければ風あらしと申すは是なり」(平成新編御書 1557)

 

  5月12日 大聖人、鎌倉を出発し、日興上人の勧めにより、日興上人深縁の檀越・波木井実長の所領・身延山へ

 『種々御振舞御書』

 「本よりごせし事なれば、三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと」(平成新編御書 1069)

 

5月15日 大聖人、駿河大宮に宿す(現在の富士宮市宿泊)

 5月17日 大聖人、南部・波木井郷に到着。

 5月24日 大聖人、『法華取要抄』を述作。(十大部御書)(平成新編御書 731)

 6月17日 身延沢に大聖人の庵室が完成

 

10月5日 蒙古襲来(文永の役)大聖人預言の的中

 守備の軍勢は敗退し、壱岐・対馬は蒙古軍に占領された。現地では、住民の打ち殺し、生け捕りなどあらゆる暴虐の限りが尽くされた。

 

 この年、第三祖日目上人、初めて日興上人に謁見

 

 

 

◇建治元(1275)年 大聖人54歳

 1月下旬 日興上人、南条家を拠点として、富士方面一帯の大折伏を開始

 6月10日『撰時抄』述作。五大部 平成新編御書 834)

 初夏頃 日興上人の教化により、熱原滝泉寺の住僧であった下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅、三河房頼円、複数の俗信徒らが入門

 

 6月 熱原・滝泉寺の院主代行智ら、住僧や地元大衆の改宗を受け、迫害を開始

 7月 日興上人、富士加島・高橋家に逗留しながら折伏弘教を展開

 9月7日 幕府、蒙古使者を竜口にて斬首

 10月 大聖人、日興上人を助け、熱原法華講衆を援護する南條時光に御本尊を下付

 

 

 

◇建治2(1276)年 大聖人55歳

  3月16日 大聖人出家の師・道善房死去

 4月8日 日目上人、伊豆・走湯山において、日興上人により得度。

 7月21日 『報恩抄』を述作。(五大部 平成新編御書999) 

  大聖人、弟子を安房に遣わし、道善房の墓前にて同抄を読ませる。

 『報恩抄送文』

 「親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得へ(中略)御まへと義城房と二人、此の御房をよみてとして、嵩がもりの頂にて二・三遍、又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給ひては、此の御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ」(平成新編御書 1037)

 

 11月24日 日目上人 入室

 日目上人、身延山に初登山し、以後、大聖人に常随給仕する。

 

 秋頃 滝泉寺院主代行智、日秀・日弁・日禅・頼円らに称名念仏の誓状を強制する。頼円は脅迫に負けて退転。他三師は行智の圧迫を拒否したため、滝泉寺より擯出処分。

『滝泉寺申状』

 「三河房頼円並びに少輔房日禅・日秀・日弁等に仰せて、行智、法華経に於ては不信用の法なり、速やかに法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申すべきの由、起請文を書かば、安堵すべきの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随って起請を書きて安堵せしむと雖も、日禅等は起請を書かざるに依って、所職の住坊を奪ひ取るの時、日禅は即ち離散せしめ畢んぬ。日秀・日弁は無頼の身たるに依って、所縁を相憑み、猶寺中に寄宿せしむ」(平成新編御書 1403)

 

 

◇建治3(1279)年 大聖人56歳

 4月初旬 大聖人、『四信五品抄』を述作。(十大部御書) (平成新編御書 1111)

 6月   大聖人、『下山御消息』を述作。(十大部御書) (平成新編御書 1137)

 

 

◇弘安元(1278)年 大聖人57歳

1月1日 『御義口伝』完成 

 『御義口伝』とは、大聖人が御内証の立場から法華経を講義され、その講義禄を日興上人が筆記し、のちに大聖人に被見して御允可を得たもの。允可を得ているため、大聖人の御書と拝すことができる。

 『家中抄上』

 「聖人、山居の後門弟子の請ひにより法華経の御講釈あり。御弟子衆数多ありと云へども、日興達士の撰にあたり給ひしかば、章安所録の天台章疏に習って聖人の説法を記録し給ふ事合して二百二十九箇条・其の外度々の聞を集めて日興記と名づく。是れ聖人編集の註法華経に就いての口伝なり」(日蓮正宗聖典 766)

 

2月頃  富士・熱原農民 神四郎・弥五郎・弥六郎ら入信

3月19日 大聖人、門弟に法華経講義を始める(『御講聞書』日向記)(弘安3年5月28日まで)

7月27日 佐渡・阿仏房日得 大聖人のもとへ三度目の登山参詣

『千日尼御前御返事』

「七月廿七日の申の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにと、まづといて候ひつれば、いまだやまず、こう入道殿は同道にて候ひつるが、わせはすでにちかづきぬ、こわなし、いかんがせんとてかへられ候ひつるとかたり候ひし時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給へる父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有るを、ゆめにて悦ぶがごとし。あわれあわれふしぎなる事かな」(平成新編御書 1254)

 

9月 大聖人、『本尊問答抄』(十大部御書)を述作。浄顕房に与える(平成新編御書 1274)

 

 

 

◇弘安2(1279)年 大聖人58歳

3月21日 阿仏房日得 佐渡にて死去

7月29日 幕府、元の使者を博多にて殺害

8月 大聖人、『異体同心事』(平成新編御書1389)を南條時光に与える (熱原の大折伏さ中)

9月21日 熱原法難 

 神四郎ら20名が捉えられ、鎌倉に送られる

10月1日 大聖人、門下に『聖人御難事』(平成新編御書 1396)を与えられる

 

10月12日 本門戒壇の大御本尊建立

 大聖人、熱原法華講衆の赤誠の信行に鑑み、一期の出世の本懐成就の機運の満ちたことを悟られる。

 大聖人、大楠の大木に御本尊を認め、弟子・日法が彫刻

  さらに日法、大御本尊彫刻の切れ端を使って、大聖人の御影を彫刻造立。大聖人にお見せしたところ、大聖人は左の御手にこれを取り、「よく我が姿に似たり」と完爾とされる。(最初仏=現在、大石寺奉安堂内・大御本尊横に安置)

 「日法上人、此の大御本尊彫刻の砌、大聖人滅後の弟子檀那等、大聖人の尊容を拝し奉りたく、恋慕の思いを生ずるなるべしと思惟せられ、此の大御本尊の板の余材を以て、大聖人の尊影を一体三寸に彫刻し奉り、大聖人の御剃髪を灰しって薄墨の衣・白五條の袈裟に御彩色申し上げ、大聖人の尊覧に供えてあれば、大聖人之を左の御手に据えさせられ、つくづく御覧遊ばされ、完爾と笑みを含ませ給いて、能く我が姿に似たりと允可し給う御影様、則ち最初仏と称し奉るなり」(総本山60世日開上人全集 7)

 

10月15日 熱原法華講衆 神四郎・弥五郎・弥六郎、鎌倉にて刑死 他17名放免

      日興上人、鎌倉より大聖人へ法難の詳細をご報告

 

この頃  大聖人、日興上人に『三大秘法口決』を相伝する。

この頃  大聖人、日興上人に『万年救護本尊』(文永11年12月筆)を与えられる

 

 

◇弘安3年(1280)年 大聖人59歳

1月11日 大聖人、日興上人に『百六箇抄』をもって血脈大事に関する奥義を相伝。

11月14日 鎌倉・鶴ヶ丘八幡宮 大炎上

 

 

◇弘安4(1281)年 大聖人60歳

4月28日 鎌倉大風。

5月 蒙古来襲(弘安の役)

閏7月1日 蒙古船 大風に遭い難破大敗す。

 

 

 

◇弘安5(1282)年 大聖人61歳

 

9月 大聖人、日興上人を唯授一人本門弘通の大導師と定め、日蓮一期弘法付属書を与える。

『日蓮一期弘法付属書』

 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。時の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり 弘安五年壬午 九月 日   日蓮  血脈の次第日蓮日興」(平成新編御書 1675)

 

9月8日 大聖人、身延出山。湯治の為常陸国へ出発。

9月18日 武蔵国・池上宗仲邸に到着。

9月   大聖人、日目上人に命じて伊勢法印を論破せしむ

9月25日 大聖人、池上邸にて、『立正安国論』をご講義

10月8日 大聖人、日興上人に『産湯相承』を相伝

10月8日 大聖人、六老僧(日昭 日朗 日向 日興上人 日頂 日持)を定める。

10月10日 大聖人、日興上人に『御本尊七箇相承』『教化弘教七箇口決大事』を相伝。

10月11日  大聖人、日興上人に『法華本門宗血脈相承事』(本因妙抄)を与える

 

10月13日 大聖人、日興上人を身延山久遠寺別当と定め、身延山付属書を与える

『身延山付属書』

 「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。弘安五年壬午 十月十三日 武州池上 日蓮」

(平成新編御書 1675)

 

10月13日 御入滅

 辰の刻 大聖人、池上宗仲邸にて御入滅

 日寛上人『蓮祖義立の八相』

 「夫れ釈尊は、霊鷲山に於て妙法を演説し、霊山の艮(うしとら)に当る跋提河(ばっだいか)の辺り沙羅林にして入滅したまへり。聖人は身延山に於て妙法を講誦し、延山の艮に当る田波河(たまがわ)の辺り池上邑(むら)にして寂に帰す。古今道同じく、応に所以あるべし」(富要三ー248)

 

○本仏による滅不滅の相 

 法華経『寿量品』

 「必ず当に難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし。是の故に如来、実に滅せずと雖も、而も滅度すと言う」(大石寺版法華経 434)

 法華経『寿量品』

 「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」(大石寺版法華経 439)

 

 

10月14日 戌の刻・ご入棺  子の刻・葬送(御火葬)

10月16日 日興上人、『宗祖御遷化記録』を記す(平成新編御書 1863)

10月21日 日興上人、ご遺骨を奉じて池上を出発

10月24日 日興上人、富士上野・南條時光邸 逗留

10月25日 日興上人、身延山久遠寺着

 

 

◇弘安6(1283)年 大聖人ご入滅2年目

1月 諸直弟ら 身延の大聖人御正墓の輪番制を定める。

   日興上人大導師のもと、大聖人百ヶ日忌法要を修す

 

○五老僧らの不法が見え始める

 日朗、「墓所の傍らに立て置くべし」(平成新編御書1866)との大聖人のご遺言に背き、立像仏を盗みとって、自坊へと持ち出す

 日昭、「墓所の寺に籠め置き、六人香花当番の時、之を被見すべし」(平成新編御書1866)との大聖人のご遺言に背き、大聖人ご所持の『註法華経』十巻を盗みとって、自坊へと持ち出す

 

10月13日 日興上人、身延にて大聖人第一周忌法要を修す。

五老僧(日昭・日朗・日向・日頂・日持)とその門下ら、法要に不参加 五老僧ら、師敵対の態度を表明す

 

 

◇弘安7(1284)年 大聖人ご入滅3年目

7月 元の使徒、重ねて対馬に来たる

8月 幕府、北条時光を佐渡に流す(自界叛逆)

10月3日 幕府、北条時国を常陸に誅殺す(自界叛逆)

10月13日 日興上人、大聖人第三回忌を、身延にて修す。五老僧ならびにその門下は不参加。墓参さえ行なわず、師敵対を露呈

 

 

◇弘安8(1285)年 大聖人ご入滅4年目

4月 日昭、「日蓮大聖人の弟子」ではなく、「天台沙門(天台大師の流れを汲む者)」と名乗り、武家に申状を献上。日朗も、「天台沙門」と名乗り、武家に申状を献上。

 

 秋頃 民部阿闍梨日向(五老僧のひとり)が、日興上人の説得に応じて、身延山の大聖人御墓に参詣。日興上人、日向の登山を讃え、学頭に補任

 

 

◇弘安9(1286)年 大聖人ご入滅5年目

 民部阿闍梨日向、日興上人の期待に背き、不法の色(日興上人の指南にしたがわないばかりか、謗法を容認する言動を繰り返し、波木井殿の感心を買うよう仕向ける)を現わしはじめる。

 

 

◇正応元(1288)年 大聖人ご入滅7年目

 民部阿闍梨日向の謗法はエスカレート

 

 

 

◇正応2(1289)年 大聖人ご入滅8年目

春 身延離山 

 日興上人、本門戒壇の大御本尊や諸御書、ならびに大聖人の御正墓より御灰骨を出して身延山を離山し、富士上野の檀越・南條時光の館へ身を寄せる

(離山の大きな理由)

1,民部阿闍梨日向と、それにそそのかされ数々の謗法を繰り返し、しかも日興上人の指南に従おうともしない波木井実長と断絶し、大聖人の正法を守り切るため

2,広宣流布の暁に「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」との大聖人のご遺命にしたがい、その基礎を成すため

 

『原殿御返事』(日興上人ご消息)

 「身延沢を罷(まか)り出で候事面目なさ本意なさもうし尽くし難く候へども、打ち還し案じ候へば、いづくにても聖人の御義を相継ぎ進(まい)らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思ひ候ひ奉るに、御弟子(五老僧)悉く師敵対せられ候ひぬ。日蓮一人、本師(大聖人)の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候へば、本意忘るゝこと無くて候」(日蓮正宗聖典 698)

 

 大聖人の御灰骨は現在、大御本尊とともに大石寺奉安堂に安置

「大御本尊西の方、宝塔の中に在すは、大聖人御年六十一歳、弘安五年壬午十月十三日、武州・池上右衛門大夫宗仲が館に於て御入滅、御遺命に任せ御火葬申し上げたる御霊骨」(総本山第60世日開上人全集 7)

 ※身延山にある大聖人御正墓中の遺骨はニセモノ

 

10月 日興上人、南條時光より広大な大石が原の寄進を受け、寺院建立の工事を開始される

 

 

 

 

 

 

 

◇正応3(1290)年 大聖人ご入滅9年目

10月12日 大石寺開創

 日興上人、大石が原の寺(大石寺)を建立し、本門戒壇の大御本尊、ならびに諸宝物、大聖人ご灰骨を安置し、正法広布のための万代の礎を築かれる。

 

10月13日 日興上人、血脈の大法を日目上人に内付 日目上人を第三祖に選定

      日興上人、御座替わりの御本尊を日目上人に授与。

 

 

◇永仁6(1298)年 大聖人ご入滅17年目

 2月15日 日興上人、重須(富士宮市北山)に御影堂を建立し、重須に転居。大石寺の運営・護持の一切を日目上人に任せ、ご自身は重須の談所(学校)にて弟子の育成に専念される。

 

師敵対謗法の五老僧~その後

○日昭は最期まで日興上人に反逆(日蓮宗系の祖)

○日朗は晩年、富士・日興上人に見参しにやってきたが、改心や帰依には至らず(日蓮宗系の祖)

○日向は魔山と化した身延山第二祖を詐称し、日興上人に最期まで反逆(日蓮宗系の祖)

○日頂は晩年、富木常忍有縁の自身本拠地(中山法華経寺・日蓮宗系)を他に託し、自身は富士の日興上人に帰依。重須に正林寺を建立し、その地にて寂

○日持は布教に出たまま消息不明(樺太からユーラシア大陸まで到達したとの伝説あり)

  

 

◇元弘2(1332)年 大聖人ご入滅51年目

 5月1日 南條時光(大行尊霊)寂。

 11月10日 日興上人、日目上人に『日興跡条々事』を授け、正式に本門弘通の大導師と定める。

 『日興跡条々事』

 「日興跡条々事   元弘二年一一月一〇日

 一、本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。

 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

 一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。

 右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るも敢へて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で\[甲州身延山\]御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依って此くの如く書き置く所なり。仍って後の為証状件の如し。

   十一月十日             日興 花押」 (平成新編御書 1883)

 

 

◇元弘3(1333)年 大聖人ご入滅52年目

1月27日 日興上人、御本尊を書写(御筆止御本尊)

2月7日 日興上人、ご遷化 世寿88歳

 

5月22日 北条氏滅亡(鎌倉幕府、終焉)

6月5日 後醍醐天皇 京都に遷幸。翌年より建武の新政

 

10月 日目上人、第四世日道上人へ唯授一人の血脈を相承し、大御本尊と御霊骨、すべての宝物、大聖人の仏法の一切を日道上人へ授ける。

 

11月15日 日目上人、京都へ国家諫暁のため向かわれる途中、美濃国垂井にてご遷化。世寿77歳。

 

この年 第四世日道上人、『御伝土代』(最古の日蓮大聖人伝記)(日蓮正宗聖典 735)を著作。

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info