日蓮正宗総本山第66世御法主日達上人ご教示
       ※御書の引用は、御書全集、六巻抄・御書文段等は聖典や富士宗学要集等のままです。

 

 

種脱相対に就いて
                (昭和三十三年九月二日 第七回全国教師講習会講本)

 

 一、宗祖第三の法門
 常忍抄(禀権出界抄)に、「法華経と爾前と引き向えて勝劣、浅深を判ずるに当分、跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一、二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台、妙楽伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり」                          (全981)
 この第三の法門について日蓮門下一般においては、天台の三種の教相を取り入れているので、即ち天台の第一教相、根性の融不融を宗祖の第一法門とし、天台の第二教相、化導の始終不始終を宗祖の第二法門とし、天台の第三教相、師弟の遠近不遠近を宗祖の第三法門としているのである。
 本宗においての宗祖第三の法門とは日寛上人観心本尊抄文段に、
 「解して云く、一には爾前当分迹門跨節、是れ権実相対の法門也、二には迹門当分本門跨節是れ本迹相対の法門也、三には脱益当分下種跨節是れ種脱相対の法門也、是れを下種の三種の教相と名づくる也、中略 台家の三種の教相に望むるに彼の第一第二を以て即ち当家の第一と為す、彼の第三師弟遠近を以て即ち当家の第二と為す、更に第三の種脱相対を加えて当家三種教相と為す也、中略 諸門流の輩此の義を知らず只天台の第三を取て即ち蓮祖の第三と為す云々」                        (富士要4ー217)
と宗祖の第三法門を明快に釈せられている。宗祖は又、十法界事に
 「法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取って掌中に捧ぐるが如し、所以は何ん迹門の大教起れば爾前の大教亡じ、本門の大教起れば迹門爾前亡じ、観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず此れは是れ如来所説の聖教、従浅至深して次第に迷を転ずるなり」                                 

                                   (全420)
と一代聖教を当分跨節に分け従浅至深に説かれて観心の大教を示されたのである。
 此処に観心とは本尊抄文段に、
 「文底下種の法門を以て観心と名づくるなり」        (富士要4―217)
と、又は
 「観心の法華経とは即ち是文底下種の法華経也」         (要4―218)
と釈せられている。故に十法界抄のこの四重興癈の意は、「観心の大教」とは宗祖の第三の法門となるのである。日寛上人はこの意を三重秘伝抄に、
 「一代の諸経は但是れ四重なり、所謂爾前、迹門、本門、文底なり、此の四重に就いて三乗の秘伝あるなり、謂く、爾前は未だ一念三千を明かさず、故に当分と名づく、迹門は即ち一念三千を明かす、故に跨節と名づく、此れは是れ権実相対第一の法門なり、迹門に一念三千を明かすと雖も末だ発迹顕本せず、是れ真の一念三千に非ず、故に当分と名づく、正しく本門に真の十界互具、百界千如、一念三千を明かす、故に跨節と名づく、此れは是れ本迹相対第二の法門なり、脱益の本門文上は真の一念三千を明かすと雖も、猶お是れ理の上の法相、迹の中の本なるが故に通じて理の一念三千に属す。故に当分と名づく、但文底下種、独一本門、事の一念三千を以って跨節と名づく、此れは是れ種脱相対第三の法門なり、学者若し此の旨を得ば釈尊一代五十年の勝劣、蓮祖の諸抄四十巻の元意、掌中の菓の如く了了分明ならん」                             (聖典 825)
と説かれて宗祖第三の法門の意を示されているのである。
 血脈抄の下種の三種の法華の本迹に、
 「二種は迹なり一種は本なり、迹門は隠密法華、本門は根本法華、迹本文底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり」                        (全865)
とあって、この三種の法華の隠密、根本の二種は迹と説かるれば、法華経の迹本共に迹となり、顕説は文底の南無妙法蓮華経と説かるれば宗祖の第三法門に当る。
 三種の法華について大日蓮誌七月号に山上三郎氏は「今の妙法蓮華経は三種の法華未分なり」の文を文底下種観心の重でなければならない。と釈して居るが、此の今とは、「今日」で即ち釈尊の文上の妙法蓮華経で、久遠本因下種を顕説した顕説法華が文底の妙法蓮華経の正意と私は解するのである。
 尚日有上人は化儀抄に、
 「釈尊一代の説教に於て権実本迹の二筋あり、仏の権実とは法華已前は権智、法華経は仏の実智なり、中略、本迹とは身に約し位に約するなり、仏身に於て因果の身在す故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、中略、法華経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹ともに迹なり、今日の寿量品と云うも迹中の寿量なり、中略、さて本門は如何と云うに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり」          (聖典994)
と示されて、今日の寿量品を迹とした、その本である所の久遠本因妙が宗祖の第三法門となるのである。
 かくの如く本宗では、天台の三種教相第一第二は権実相対にして宗祖の第一法門、第三の師弟遠近不遠近は本迹相対にして宗祖の第二法門である。しかして宗祖の第三法門は、種脱相対で在世の寿量品及び一品二半、乃至八品所顕は脱の辺、其の品々の功能徳行を説く方は迹で、本因本果、上行釈尊、師弟久遠の妙法蓮華経を種の辺とするのである。


二、種熟脱の三益
 要するに種脱相対は仏法を学ぶ上の観心の上に立った教相であるが、更に種脱のことを知らなければならない。種脱とは種熟脱の三益のことで、一仏化導の始終、施化の次第をいうのである。観心本尊抄に、
 「設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還って灰断に同じ」    (全249)
又、開目抄に、     
 「真言、華厳等の経経には、種熟脱の三義、名字すら猶なし何に況や其の義をや」
                                                                           (全215)
又、曽谷入道等許御書に、
 「所詮彼れ彼れの経経に種熟脱を説かざれば還って灰断に同じ化に始終なきの経なり」
                                                                         (全1027)
又、秋元抄に、
 「種熟脱の法門、法華経の肝心なり」                (全1072)
等と種熟脱の三益は宗祖の法門において大切な法門である。その三益の関係に就いては、日寛上人は開目抄文段下に、
  「問う種熟脱の名字如何、答う私志に云く、種は謂く下種即ち是れ最初に此妙道了因の種子を下す、熟は謂く長養成就、其の初の種をして増長成就せしむ、脱は謂く度脱、生死の此岸を脱離して涅槃の彼岸に度到する也」             (富士要4ー324)
と示されている。しかしてこの三益は一仏化導の三益であるからその次第を見るに、同じく日寛上人は同文段の次ぎ下に、文句の四節を引用している。
  「衆生久遠に仏の善巧を蒙て、仏道の因縁を種へしむ、中間に相値て更に異の方便を以で第一義を助顕し、而之を成熟し、今日雨華動地して如来の滅度を以て而之を度脱す(第一節)、復次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す、地涌等是也(第二節)、復次に中間を睡と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す、今之開示悟入の者是也(第三節)、復次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為し、未来得度の者是れ也第(四節)中略、第一第二は本の因果に種し等云云」          (富士要4ー224)
 以上は三益を四節に分けて示されているのであるが、第一節第二節が本因本果を示すことを教えられているのである。
 三益の関係を宗祖は三世諸仏総勘文抄に
「釈迦如来、五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世、番番に出世、成道し在々、処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕す」                             (全568)
と教えられて三益の因果を示されている。今、三益を分って迹門、本門、文底の三益となすと、
 迹門三益 
 大通智勝仏の時、十六王子の法華覆講により一切の人に下種結縁し、その大通智勝仏の時より、世々番々の化導をなし、今日印度に出現し法華経に至る迄の経々に依て調熟するを熟益とし法華経の迹門正宗分(方便品―授学無学人記品)に得脱せるを脱益とする。
 本門三益
 本仏が久遠元初において衆生の心田に仏種を下せるを下種益とし、久遠元初より大通仏の十六王子法華覆講より更に今日の法華迹門の化導を熟益とし、本門正宗一品二半に至って得脱するを脱益とする。
  文底三益
 末法は、本未有善の衆生で、既に久遠下種の衆生は、在世並に正像において得脱したのであるから其の余残の機及び本未有善の衆生を、末法万年、尽未来に渡って得脱せしめる為に本仏が出現して、寿量品文底の南無妙法蓮華経をその衆生の心田に下種するのである(久遠下種を再現する)。之を末法下種益とし、その末法の本仏即ち宗祖大聖人の化導に従うものは下種益に三益を具するのである。更に言うならば、信を下種とし、南無妙法蓮華経を口唱することを熟益とし、本尊に冥合するを脱益とするのである。


三、種について
 種と熟と脱の関蓮性は取要抄文段に日寛上人が、
 「譬ば田家の春種子を下し、夏之を調熟し、秋は其の実を取るが如し、其の秋の実とは必ず春の種に還る、是れを秋実と名づくるなり」         (富士要4ー382)
 日有上人も常に「信田に仏種をうゆる」と申されている。依て種とは成仏する本種であり、熟とは仏道修行の過程で、脱は仏果を成じた所即ち本果である。この本因本果共に妙法蓮華経の証得によるのであるから本因妙、本果妙というのである。故に本因妙とは久遠本仏の因位の修行、本果妙とは久遠本仏の修因感果の功徳である。勿論天台の本門十妙の名である。
 種とは大聖人は、曽谷入道等許御書に、
 「一乗を演説すれども題目の五字を以て下種と為す可きの由来を知らざるか」
                                                                             (全1027)
 秋元抄
 「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」 (全1072)
 観心本尊抄
 「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」     (全249)
 御義口伝には、
 「種とは下種の南無妙法蓮華経なり」                (全732)
 「一切種智とは南無妙法蓮華経なり、中略・種智は万物の種なり妙法蓮華経是なり」
                                                                                (全750)
 「題目の五字計り当今の下種なり」                 (全753)
 「種子とは信の一字なり、所謂南無妙法蓮華経改めざるを云うなり」  (全760)
とお説きになり、日寛上人は本尊抄文段上に、
 「種とは是れ能生の義、然るに今一念三千とは、即ち是れ文底秘沈の本地難思の境智の妙法の御事也、此の本地難思の境智の妙法蓮華経は能く十方三世の諸仏を生ず」
                                (富士要4一245)
と教えられている。此等を以て見るに種とは能生即ち南無妙法蓮華経である。
 さて、総勘文抄に示されたる、釈迦如来五百塵点劫の当初証得した「地水火風空」とは同抄に「五智の如来の種子、則ち妙法蓮華経の五字なり」と、又「天地水火風は是れ五智の如来なり」と、又「五行とは地水火風空なり五大種とも五種とも云う」と説かれてあれば、釈迦如来五百塵点劫の当初証得の法体は即ち南無妙法蓮華経である。
 この南無妙法蓮華経が本種である。
 されば種とは仏果を成ずべき原因で、之を生物の種子になぞらえて種とも種子ともいい即ち 仏種のことである。方便品に「仏種従縁起」とある。その仏種を分けると、
一、三説超過の法華経の肝心の南無妙法蓮華経。
二、本仏証得の一念三千本因本果を具する南無妙法蓮華経。
三、順逆共に能開の種(護法の三道を開合して三徳とする相対種と、小善開会して順縁とする就類種との仏種)

四、昔円開会の種、爾前権教、迹門の円皆寿量の円に開会して仏種とす。
 右の如く種々にその仏種は考えられるが、その下種の正体は日寛上人撰時抄文段上に、
 「凡そ末法下種の正体とは久遠名字の妙法事の一念三千也、是れ則ち文底甚深の大事蓮祖弘通の最要也」                        (富士要4ー334)
と説かれもっと明確に言えば、
 「法華経の本門寿量品の肝心久遠名字の南無妙法蓮華経」    (富士要4ー335)
である。その種の一仏化導の関係は、久遠下種、久遠元初め当初に一切衆生の心田に仏種を下したものをう。迹中熟益、久遠下種せられた者の更に退転又は謗法の者に迹の化を施すをいう。寿量脱益、本門寿量一品二半において得脱せしをいう。文底下種、今番の化導は本果に止まり、末法万年尽未来の本未有善の荒凡夫に寿量文底の南無妙法蓮華経を下種するをいう。
 文底とは文上に対して法華経の肝要の意を取ったので文底、肝要、元意、眼目等同意義である。日有上人化儀抄に、
 「下種とは一文不通の信計りなる所が受持の一行の本なり、夫れとは信の所は種なり、心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以ってそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行、相似は熟の位、分真、究竟は脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかえるなり、釈に云わく、脱は現に在りと雖も具さに本種に騰ず」              (聖典995)
 同しく化儀抄に、
 「下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終りて脱する所を終と云うなりへ脱し終れば種にかえる」               (聖典996)
等とあって脱は必ず具騰本種の種に還るのである。
 ある師はこの種熟脱の関係を種から熟、熟から脱、脱から種と一円周上を循還する如く説いている。
 又ある師は久遠下種より熟脱と更に種より進む所の螺旋の如く説いている。
 私はこの両方とも不当と考えるのである。なんとならば「脱し終れば種にかへる」とは、本果は本因を覚知して真の証得があるので、三重秘伝抄に
 「後後の位に登るは前前の行に由るなり」             (聖典823)
とある如く本果はその久遠の本因にかえるのである。
 久遠下種は今番の釈迦如来の本果脱益において一仏の化導が終ったのであるから、あらためて下種の仏が出現して本種南無妙法蓮華経を末法の衆生の心田に下種するのである。
 その仏こそ宗祖日蓮大聖人である。本因妙抄に、
 「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」               (全874)
との給うたのである。よって百六箇抄に
 「名字本因妙は本種なれば本門なり、本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり、久遠釈尊の口唱を今日蓮直に唱うるなり」                    (全862)
と仰せられ、御義口伝に、
 「此の菩薩は、本法所持の人なり、本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌所持の物」                               (全751)
とせられ、之れによって上行菩薩を指して「本因妙は上行菩薩」と御義口伝に示されているのである。そして血脈抄に、
 「久遠名字より已来た本因本果の主、本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」                                (全854)
と宣せられたのである。
 今末法の種熟脱を考えると、序正流通共に末法の始を以て詮とするので、その所詮は下種本因妙の本尊題目の南無妙法蓮華経の一仏一法の上の序正流通にして不応多種の本因妙の修行である。御義口伝に
 「聞とは名字即なり、法とは題目なり」                (全737)
とあって、依義判文抄
 「証真云く聞法を下種と為す、了因の種なるが故に、発心を結縁と為す、仏果の縁なるが故に」                               (聖典884)
末法の本未有善の凡夫は末法本因妙の教主宗祖大聖人より本因妙の南無妙法蓮華経を、観心本尊抄の
 「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」
                                   (全253)
如く下種せられ、末法の我々は聞法下種したのである。本種の妙法蓮華経を聞法下種し、即座に信じ直ちに本因妙の本尊に帰入する。此れ末法の即身成仏である。もっと端的に云うならば日因上人は、
 「題目の唱えかけが下種で中頃が熟で終りが脱」と説法せられている。
 御義口伝
 「一念信解の信の一字は一切智慧を受得する所の因種なり、信の一字は名字即の位なり仍って信の一字は最後品の無明を切る利剣なり、信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり此の理事の顕本を一念に信解するなり、一念とは無作本有の一念なり」                                 (全760)
 同
 「末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏す可し」       (全772)
即ち末法下種の南無妙法蓮華経を聞法により、一念信解、乃至受持の一行によって即座に成道するのである。文底秘沈抄
 「血脈抄に云わく、釈尊久遠名字即の御身の修行を末法今時の日蓮が名字即の身に移す云々。又云わく、今の修行は久遠名字の振舞に芥爾計りも相違なし」   (聖典840)
とある所以である。
 されば末法は、種熟脱は時聞や位に渡らないのである。能化の仏は凡夫僧である。
 御義口伝
 「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり、法とは題目なり、僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり、深覚円理名之為仏の故なり、円理とは法華経なり」
                                                                             (全766)
 末法の凡夫僧の仏即ち宗祖大聖人は釈尊久遠名字即の御身の修行を末法の今に移して我が身、南無妙法蓮華経也と即座に開悟したのである。所化の我等凡夫は大聖人の下種により。日因上人仰せの、
 「当家の行者は若は誦経、若は唱題一向余事余念無して南無妙法蓮華経と唱る処に妙法の即身成仏を立たる者なり」
の如く、不渡余行の南無妙法蓮華経の一念信解に依て即身成仏するのであるから、種熟脱の三益は下種の一時に相即するのである。故に化導を図示するに円周でもなく、勿論螺施状でもない、ただ短い一線否な下種の一点でよいのである。故に、御講聞書に、
 「本因のまゝ成仏なリと云うを本果とは云うなり」           (全808)
即ち本因に本果を倶するのである。又、観心本尊抄文段上に、
 「当知照境未窮は種家の本因妙なり、尽源為果は即ち是種家の本果妙なり、此の本因本果は刹那の始終一念の因果にして真の十界互具百界千如事の一念三千の南無妙法蓮華経也」                                      

                               (富士要4ー225)
と説かれている。末法下種の妙法蓮華経は、一念信解刹那成道である。ここに「具騰本種」の意が深重になるのである。故に末法には、下種の語あって熟脱を言わざる所以である。


四、種としての本因、本果
 次に本果妙と本因妙を比較するに、本果妙は応仏昇進の仏の本果であって、本因妙は上行所伝末法顕現の名字の南無妙法蓮華経である。報恩抄文段下に、
 「今日色相荘厳の三蔵応仏次第昇進して始成の三身を開して別の久遠本果の自受用身と顕れ玉うは即是れ応仏昇進の自受用身にして、色相荘厳の尊容、在世の本門教主釈尊也、若し釈尊五百塵点の当初凡夫の御時無教之時即内薫自悟一迷先達以教余迷の教主釈尊は即是れ本門寿量の文底久遠元初の自受用報身、名字凡夫の当体、本因妙の教主釈尊也」
                               (富士要4ー369)
と説かれ、又その次下に
 「在世の本門の教主は本と是れ脱益の化主也、久遠本因の教主は本と是れ下種の法主也、今既に末法下種の時なり、何ぞ下種の教主を閣いて却って脱仏を以て本尊と為すべけんや」
                               (富士要4ー369)
尚は、五重円記に
 「当流は観心の上に元意を立つ。そは上行所伝の妙法本門自行の要法是れなり。釈に云わく、此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり、本地とは元意と同じ事なり、三世如来の師とし給う所、一仏不出現元意の大法に非ずや。此れを以って元意とは本因所修の法体なり」
                                  (聖典534)
 血脈抄に、
 「日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり、是れ真実の本因本果の法門なり」
                                   (全867)
と本果抄と本因妙との勝劣を明らめているのである。而し此の勝劣と云うは末法の化導の上に於ける化用の勝劣である。
 又、種と脱の関係について日寛上人は、取要抄文段に
 「春の種は是れ一粒なりと雖も秋に至れば必ず万倍を得て普く妻子及眷属を養う也。
下種は是れ妙法の一句と雖も得脱の秋至れば必ず一粒万倍の法門を成ず。妙法五字の一句従り八万十二の法門を出し普く一切衆生を益せんこと豈疑い有る可んや」
                               (富士要4ー382)
また本尊抄文段下に種を譬を以て釈している。
 「田家の如き糟を脱するを米と云い、脱せざるを籾と名く、米は以て命を養い、籾は即ち種と成る。米は文上脱益の一品二半の如く、籾は文底下種の題目の五字の如し、仏は米を以て在世の衆生に与へ法身の恵命を養しめ、籾を以て本化の菩薩に付属して、末法今時の種子を為す。故に彼は一品二半、此は但題目の五字と云う也。若し粳米を以て即ち種子と為さば豈菓を得べけんや、余穀例して爾也。又瓜等の如き、瓜の実は種子と成らず、瓜の核、能く種子と成る。瓜の実は文上脱益の一品二半の如く、瓜の核は文底下種の題目の如し、瓜の実能く熟を除き喉を潤す故に仏は一品二半の瓜実を以て在世の衆生に与へ無明の熱を除き法性の喉を潤す、瓜核種と成り、能く菓を生ず故に仏妙法五字の瓜核を以て本化の菩薩に付属し、末法の衆生の信心の畑に下す」               (富士要4ー281)
と全く明快に本因、本果の種子の事を説き明かされている。
 今日の本果妙がそのまま末法の種子ではない。本果妙が久遠名字の本種に還った時のその本種を本法として上行が所伝して末法の本種となしたのである。血脈抄に、
 「本果妙の釈尊、本因妙の上行菩薩を召し出すことは一向に滅後末法の利益の為」
                                   (全863)
とも
 「自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」                      (全863)
と判ぜられて本果と本因は、末法に於ける化用に自ら勝劣があることを知ることが出来る。


五、門下に於ける本因下種論と本果下種論
 宗祖門下において下種論に本因下種論と本果下種論とに分つことが出来る。
 本因下種論は、我が正宗で、それに隆門派(本門法華宗八品派)がある。
 本果下種論は、什門派(顕本法華宗妙満寺派)と陣門(法華宗本成寺派)並に真門派(本妙法華宗本隆寺派)である。
 本因、本果の下種の勝劣は前項で述べているから明らかであるが、今更に日寛上人の末法相応抄を引くと
 「今日の本果は迹の因門を開して本の果門を顕わす故に従因至果なり、若し本の本果は迹の本果を開して本の本因を顕わす、故に従果向因なり、勝劣を言わば今日の本果は迹の因門を開して本の果門を顕わす、所顕の本果を若し本因に望むれば仍お本の上の迹なる故に今日の本果は劣るなり、若し本の本果は迹の本果を開して本の本因を顕わす、所顕の本因は独一の本門の故に本の本果は勝るるなり」                 (聖典918)
と本因本果の勝劣を明らかに示されている。その下種も亦、勝劣明らかなり。正宗以外の下種論者は、元来一致の系統から出たのであってその門祖が一致の天台流から少しも脱皮せず宗祖の本意の顕われないのを慨して分立したのである。
 今、什門を見るのに、門祖日什は、武州仙波の能化であったが、我が日時上人仙波にて学問した序に日什を教化す、後、日什宮士大宮千眼の学頭となりへ移り来るに依って、大石寺に通って学問し、日阿上人の仲介にて日時上人の弟子となる。しかし本山の行躰勤め難く本山を去り、身延、その他を歴遊し遂に直受相承(経巻相承)を立て、一品二半を立つ。日因上人は

 「本門一品二半直受を立つとは宗祖違背の人なり」

と破している。
 次に陣門は、門祖日陣は摩訶一日印の孫弟である。日印既に
「去ぬる永仁年中越後国に摩訶一と云う者有り、天台宗学匠なり、日興が義を盗取って盛んに越後国に弘通する由之れを聞く」            (門徒存知事 聖典544)
とある以上、日興上人の本迹勝劣、妙法下種の法門を知っておったことがわかる。故に孫弟が下種論家になっても不思議はない。
 隆門を見るに、門祖日隆は日朗日像の法系の日霽一驚の弟子であるから一致門流であるが、永享五年一部修行、本勝迹劣、本門八品上行所伝の宗要を発表した、然し我が日有上人永享四年三月上洛し、申状を上奏している。日隆は日有上人と親交あった所を見ると、日有上人より感化せられて八品下種の論者になったと思われるのである。
 八品は涌出品より属累品に至る本門八品であるが「地涌千界を召して八品を説いて之を付属したもう」(観心本尊抄)とある如く八品は但だ付属を表わしたにすぎないのである。
 日隠上人は、五人所破抄一覧に
 「日像の一往勝劣再往一致と云うも文の上の法門也、勝劣修行は久遠の本行を顕さん為なる故に一致の立義は害となり祖師の正意にあらず、また迹門を一致と云う時は爾前も一致となる、台家当家の常談なり、次に八品派も今日脱益の迹仏の本門にして御妙判の我が内証の寿量品にあらず、次に一品二半も亦之同じ、本尊抄に曰く、彼は脱、此は種なり、在世の脱の一品等にして今時の下種にあらず」              (富士要4ー210)
と、一致、八品、一品二半を破折せられている。
 大聖人は本尊抄に
「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」                              (全250)
とあるが、御書のいずれにも「一品二半の、或は八品の肝心の題目」などとは仰せられず、日寛上人は一品二半、八品等が宗祖の正意などとはそのいわれなしと破されている。
 よって取要抄文段に、
 「久遠本果は仍是れ旅宿也、故に終に久遠元初の本因名字の本処に還る也、故に本尊の妙法蓮華経は、久遠本因名字の妙法也、是れを上行所伝の妙法蓮華経と云う也、諸抄の中に本門寿量の肝心と判じ給う是れ也」                (富士要4ー358)
と、本果下種とは遂にそのいわれなからん。
 日蓮宗の宗門改造紙(昭和三十三年八月十五日第七十七号)の高佐日煌氏の論文に「種脱判は行化の相違であって異質価値の相対でない」といっている。
 それは前述した如く、今日の脱そのまま、宗祖の種でない事は明らかである。久遠名字の種で釈尊本果の種ではない。
 「迹の本は本にあらず」
と日寛上人が教えられている通りである。
 勿論、末法の時に当って脱益の教主は取らず本因下種の教主を取るのである。よってその勝劣は明らかであり、無論久遠に還った仏は同じであるが、ここに同体用異の勝劣がある。
 第三法門の種脱相対は亦た本迹を現わすのである。本尊抄文段上に、
 「所謂文の上の脱益を迹と為し、文の底の下種を本と為す、是れを種本脱迹と名付名る也、中略・此れ第三の法門は天台未弘の大法にして蓮祖出世の本懐也、故に日蓮が法門は第三の法門と云う也」                      (富士要4ー217)
と明かされ、宗祖の本意は種本脱迹である。


六、本因下種の正宗と隆門について
 正宗は、寿量文底下種の妙法蓮華経を取るのに、隆門(八品派)は神力別付の八品正意を本因の体とする。寿量文底深秘の妙法蓮華経は既に聞法下種であるが、在世八品を聞いて下種するは発心下種である。
 妙楽大師は、「聞法を種となし、発心を芽と為す」と述べられて、発心の芽は智慧の働きがあって出るのであるから、迹の方へ取るなり。
 「聞法を下種と為す了因の種なるが故に、発心を結縁と為す仏果の縁なるが故に」
                                  (聖典884)

 「初めて妙法蓮華経の名を聞き、始めて信を致すとは即ち是れ今日最初聞法名字下種の位なり」                               (聖典885)
等と説かれる如く聞法は末法の下種であり、発心下種は本果の縁である.
 聞法、発心共に下種とはいうも、聞法は一文不通の信の所なり、名字即である。発心下種は、在世八品を在世の寿量に対しての下種である。
 「在世の寿量品とは、一代の正機の前にして迹が中の本なり、今日蓮所弘の本門は要法の五字を愚者迷者の我等に受持せしめ給う所が、滅後の本門なり下種なり」(連陽坊聞書)
を読んでもわかる如く、在世は迹仏の説法なる故一部皆迹なり、末法に日蓮大聖人所弘の妙法は本迹に相対せざる、直ちに久遠の妙法蓮華経を受持する故に事であり独一本門である。
 しかも既に「八品正意」といういわれなしといえば寿量品の肝要、妙法五字に及ばず。
 所が世間では日有上人が隆門に組して、八品文底を立てたという者あり。今これを破すべし。恐らくはその説は、日有上人化儀抄の
 「日蓮聖人御書にも、本門八品とあそばすと、題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫れとは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付嘱を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為めなるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、嘱累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故は住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、中略・是れ迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為めには種の方の題目の五字なり」                         (聖典991)
とあるから
「本門八品と題目の五字と同じ意なり」

「八品の間、地涌の菩薩在す故、此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量となるなり」
                                  (聖典995)
等より、日有上人が八品文底を立てられたかに考え違いをしたのであろう。
 八品は本門正宗一品二半を脱とすれば即ち下種となる。即ちどこまでも在世の所論である。地涌千界の在す間は滅後なりとは在世において、滅後に地涌千界が付属を受けて、末法に寿量品の肝心妙法蓮華経を弘経する未来の様をあらかじめ現じたことを述べたのである。故に、次下に
 「是れとは在世の機の所用なり」                  (聖典996)
と述べられ
 「滅後の為めには種の方の題目の五字なり」             (聖典996)
と結ばれているのを見ても、明らかである。日有上人は決して八品文底ではない。むしろ前述の如く八品門祖日隆に本迹勝劣、本因下種の影響を与えているのである。


七、結文
 既に宗祖第三法門の種脱相対の一部を述べた。
 宗祖大聖人は末法有縁の本因妙の教主として出現せられた。我々本未有善の荒凡夫こそ、
 「本化弘通の所化の機は法華経本門の直機なり」       (立正観抄 全529)
と法華本門の直機である。更に日寛上人の報恩抄文段には、
 「直機とは直ちに本因下種の機也、故に蓮師本因下種の要法たる三箇の秘法を弘め玉う」
                               (富士要4ー365)
とあって、
 「仏、大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹みー本尊ー末代幼稚ー末法の衆生ーの頸に懸けさしめたもう」                      (観心本尊抄 全254)
たのである。
 我々は亦、宿縁深厚によって御本尊に遇い寿る。純信の誠を捧げ奉らざらんや。

 

 

総本山第66世御法主 日達上人ご尊影

 

 

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

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