総本山第67世御法主 日顯上人ご指南

 「折伏とは、真の人生の意義、徳を教えること」

 

 世間の普通の道徳、すなわち、仁義礼智信というような語に示されるところの、人間の行わなければならない道筋がありますが、これはまた人間として当然、行っていくべきことなのです。そしてこれを行っていくところに、多くの人に尊敬されていくというような、その人の徳が生ずるのであります。

 しかし、仏法の上から申しますと、それらの考え方は六道というなかにおける徳であって、変転極まりない世の中においては、様々に変っていく姿があるのであります。いかにその徳を持っておっても、大きな災難や不幸がくれば、その徳がたちまちに壊れてしまうというようなことが示されてあります。

 そこで、それ以上に貴い徳というものを説かれておるのが仏様の教えでありますが、そのうちで法華経以前の爾前経においては、六道の姿を説かれておる提謂経(だいいきょう)等があります。その提謂経には、六道のなかの地獄、餓鬼、畜生等に堕ちず、人間に生まれて幸せを受け、さらに人間より上の天上界に至って、禅定(ぜんじょう)の深い悦びを得ていくというようなことが説かれてあります。

 

 六道というものは、六道のそれぞれが変転極まりない自我を中心としたところの存在であり、それは様々な因縁の上において真の徳を成ずることにはなりません。ですから、自我というものを正しく解決をするという上に、「空(くう)」の道を説かれたのが二乗の教えであり、これを示したのが阿含経(あごんきょう)等の経典であります。さらに上の菩薩という境界を示して本当の徳を成就することを説かれたのが、華厳経(けごんきょう)という経文であります。

 これらの教えは法華経以前において、華厳、阿含、方等(ほうどう)、般若(はんにゃ)等として様々に説かれておるけれども、それらはすべて、二乗の道、菩薩の道を説いものであり、要するに九界の衆生の心を中心として仏様が示されたものであります。そして、その上に法華経を説かれましたが、これは仏様が初めて仏自身の心を顕されたところに、爾前経との大きな違いが存するのであります。したがって、これは衆生の全く悟っていないところの境界でありますから、これを直ちに聞いても非常に難信難解(なんしんなんげ)であり、この法華経の理に入るためには、まず信をもって入らなければならないのであります。

 また、この法華経を説かれるということは、「法華折伏、破権門理」という天台の文もありますが、あらゆる人間の常識であるところの道徳、あるいは二乗の道、菩薩の道等の深い仏教の内容までも権門の理として、ことごとくこれを打ち破って初めて真の法華経の意義が顕れる、これがすなわち「折伏(しゃくぶく)」ということにおいて示されておるのであります。

 したがって、真の大法である仏の真実の教えには十界互具(ごぐ)する仏知見(ぶっちけん)が示されておりまして、一切の衆生がことごとくこの仏の教えを元として真の正しい道を知り、道徳を学んで本当の徳を成就していくところに、仏法における真の徳が示されておるのであります。故に法華経を説くときには、必ず衆生の迷妄(めいもう)を打ち破る折伏ということが大切なのであります。

 

 

 

 その意味において、釈尊(しゃくそん)が方便(ほうべん)として説かれた、衆生の心を中心とする考えが色々な形で複雑に絡み合い、お互いに悪い影響を及ぼしつつ、多くの衆生の本当の心の一を閉ざしております。これが特に末法におけるところの権実(ごんじつ)雑乱(ぞうらん)、本迹(ほんじゃく)雑乱の誤った姿であります。

 そこで初めて末法出現の大聖人様が、この根本の道理から法華経の本義において折伏を行ぜられた次第であります。ですから、大聖人様の教えは法華経の根本である久遠元初(がんじょ)の本門三大秘法の御当体を、折伏によってはっきりと顕されたという次第であります。   (大日蓮 平成11年2月号 50ページより抜粋)

 

         ※表題ならびに文中の読み仮名は、編者がつけさせていただきました。

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第 1    日曜日 

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