三大秘法について

 

 仏教では、仏道修行者が修学すべき基本的なものとして「戒・定・慧」の三学を説いています。はじめの「戒」とは積極的に悪を止めて善を勧めること、「定」とは心の散乱を防いで鏡のような澄んだ清浄心になること、そして「慧」とは煩悩の原因を明らかにし、仏が説かれる真理の法を体得することです。
 日蓮大聖人は末法の一切衆生が信行すべき三学を三大秘法として説示されるとともに『三大秘法稟承事』に
 「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」(御書一五九五)
と、三大秘法義こそ法華経の根源法体であると示されています。
 この三大秘法のうち本門の本尊に「人」と「法」、本門の戒壇に「事」と「義」、本門の題目に「信」と「行」という六義(六大秘法)の立て分けがあります。これらは別個の存在を示すものではなく、六大秘法を合すれば三大秘法となり、三大秘法はさらに一大秘法に納まるものです。一大秘法とは総本山にまします「本門戒壇の大御本尊」の御事です。
 次に、三大秘法について具体的に説明しましょう。

 

 本門の本尊について

 日蓮大聖人は
 「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄 御書一二七五)
と仰せられ、仏典によって様々な本尊が説かれるなか、すべてに優れた本尊を選別することの必要性を説かれています。釈尊在世、滅後の正像二千年間には、天台大師や伝教大師といった人師や論師が出現し、様々な仏教の教えや信仰の対象となる仏像、曼荼羅などが顕わされ、世界中に仏教が弘められました。しかしそれらはすべてインドに出現された釈尊による仏法(熟脱仏法)の化導の範疇であり、すべては方便の教法であり、方便の本尊なのです。
 それらに対し、釈尊の仏教が混乱して衆生救済の力を失うとされた末法時代に入り、日蓮大聖人により顕わされた南無妙法蓮華経の大曼荼羅御本尊は、あらゆる人々を生命の根源から救う力用を具えた最勝最尊の御本尊です。これを「本門の本尊」といい、この御本尊には、大聖人の悟りの久遠元初・一念三千の妙法(法)と、その法の実体を所持される大聖人の御当体(人)がともに具わっているのです(人法一箇の御本尊)。
 日蓮大聖人は、一期のご化導のなかで、数多くの人法一箇の御本尊を顕わされましたが、なかでも弘安二年十月十二日、楠の大木に直接図顕された「本門戒壇の大御本尊」は究竟中の究竟であり、すべての御本尊の根源です。この本門戒壇の大御本尊こそ「本門の本尊」の正体なのです。

 

 本門の戒壇について

 次に「本門の戒壇」とは、本門の本尊を安置して信心修行するところをいいます。
 戒壇の「戒」は防非止悪の意で、現今では主に謗法厳戒を意味します。また「壇」は仏道修行者が戒を受ける場所を示し、謗法を排して本門の本尊を御安置する場所が、そのまま本門の戒壇です。
 この「本門の戒壇」には「事」と「義」の立て分けがあり、「事の戒壇」とは、本門戒壇の大御本尊まします霊場(大石寺)、「義の戒壇」とは本宗寺院や各家庭に下付されている御本尊所住の清浄な処のことです。
 さらに、この戒壇義には、
 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書一六七五)
との日蓮大聖人のお言葉があるように、大聖人門下全般に対する究極的な信行の目標として、広宣流布の暁に全世界の民衆が大御本尊に深く帰依し、礼拝するための堂宇を、富士山(大石寺)に建立すべき大聖人の尊い御遺命が示されています。

 

 本門の題目について

 次に「本門の題目」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることをいいます。本門の題目には「信」と「行」の立て分けがあり、「信」とは大御本尊を絶対無二と信じ奉ること、「行」とは、その信心をもとに実際に御本尊に向かって題目を唱えることをいいます。たとえ信ずる心があっても、実際に唱題しなければ功徳を成ずることはできず、また唱題の修行があっても御本尊を信じきる心がなければ成仏は叶いません。
 以上の三大秘法は、一大秘法たる大御本尊にすべての意義が集約されます。よって末法の今日、大石寺に安置されている本門戒壇の大御本尊に帰依する信仰こそ、全世界の民衆が持つべき唯一絶対の正法であり、たとえ大聖人の教えを信じていると言っても、大御本尊に帰依することなく、正統な法脈から離れたその他の団体に属していても、何の功徳も成ずることはできません。

 

◎破邪顕正の折伏こそ大聖人の正意
 現今の世相をみるとき、日蓮大聖人の御書に「大小・権実・顕密、共に教のみ有って得道無し。一閻浮提皆謗法と為り了んぬ」と示されるように、世界中に大乗教や小乗教、権教や実教、顕教や密教等の教えが多く存在するものの、それらの教えはすべて「名のみ有って実際に民衆を生命の根源から救済する力」を持ちません。むしろ邪義邪宗による謗法が人心を惑わし、人々を一層苦しめているのが現状なのです。
 ですから日蓮大聖人は、御書に「逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る」と示され、順縁の衆生はもちろんのこと、たとえ逆縁の衆生であっても、ただただ一向に妙法を説き聞かす折伏以外、末法においては、まったく意味をなさないことを教えられているのです。
 逆縁の衆生に対する折伏について、さらに『法華初心成仏抄』には
「とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(同一三一六)
と示されています。この御文について御法主日如上人は
「この御文は逆縁の功徳について述べられ、妙法を耳に触れた者は、たとえ信ぜず反対する者であったとしても、その人の心田に仏種が植えられたことになり、それが種となり、熟となり、必ず成仏に至ることができると仰せられているのであります」(大日蓮・平成二十九年十二月号)
と御指南されています。いかなる相手に対しても、まず謗法を明確に破折し、妙法への帰依を勧めていくことが、相手の方を生命の根本から救っていく唯一の方途であることを教えられています。
 『三大秘法稟承事』に
 「題目とは二意あり(中略)像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書一五九四)
と仰せです。
 天台大師など過去の法華経の行者と呼ばれる人々が行なった修行は、、自身に限られた観念観法による理行の題目行でした。これに対して大聖人が唱えられる題目は、一切の人々を根底から救いきっていくため、自行化他にわたる事行の南無妙法蓮華経なのです。


 

 ここで、三大秘法の意義を拝しつつ、私たちが行なう折伏の姿勢について、具体的に考えてみよう。
一、末法の仏様はただ日蓮大聖人に限るのであり、その大聖人と、成仏の法である南無妙法蓮華経が一体となった本門の本尊(人法一箇の御本尊)こそ、唯一の正しい御本尊であることを折伏相手に伝える(本門の本尊の意義を教える)
二、他の信仰にかかわる謗法物と、それらに対する執着を捨てさせ、折伏相手の邸宅、もしくは自室に御本尊を安置することの必要性を伝える(本門の戒壇の意義を教える)
三、御本尊を深く信じ、御本尊に向かって題目を唱える実践修行を教える。とくに大聖人が唱えられた題目は、像法時代の理行ではなく、自行化他にわたる事行でなければなりません。ですから入信したのちは、自ら勤行・唱題を実践するとともに、力に応じて折伏をも行なっていくべきことを伝えます(本門の題目を教える)
ということとなりましょう。

 御法主日如上人は、
「何事も事を成すためには、行動を起こさなければ成るものも成らず、単なる空理空論に終わってしまいます。(中略)折伏も同様、日々弛まぬ努力を続けていくことが最も大事なのであります。特に、折伏は自らが実践していかなければ功徳はなく、それは、あたかも他人が薬を服しても自らの病気は治することが出来ないのと同様であります」

                          (大日蓮・平成30年1月号)

と示されています。

 仏道修行は、机上の論理を振り回すのではなく、実践に移すことにより、はじめて自他ともに御本尊の功徳をいただき、成仏していくことができるのです。

 

(当該文章は、妙教誌平成30年3月号「御書拝読」に筆者が一部手を加え書き換えたものです)

 

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info