生命とはなにか?  宇宙と生命の実相にせまる    上級編

 

                    『日蓮正宗要義』収録「一念の生命」より

 

 生命とは何か、これは古今の哲学者、科学者が様々な研究の立場より、解明に努力しつつある大問題であり、しかもその本源的真相は依然として未解決の領域にある。

 

 最近の科学の分野においても、生命の起源をすべて解明し尽くすことは、ついに夢に終わるのではないかとの声もある。しかしまた、絶え間なく進歩する学説の一つとして、従来、「鶏が先か卵が先か」の関係で疑問視されていた問題、生命維持の要素としての核酸と蛋白質の相互関係について、ある基本的な二つの素材、アミノ酸とヌクレオチドがあると、それは相互作用を繰り返して生命の発生維持に必要な核酸と蛋白質にまで、相互に進化させられることを発表している。地球上における生命の発生は約三十億年前とされているが、その当時より地球上で有機物が合成されたとする生命の地球誕生説が、試験管の中で証明されたのである。

 

 これに対し、オーストラリアのマーチンソン隕石の研究により、これは太陽系ができた頃の原始物質、いわゆる塵の残存物質であることが判り、この中に数種類のアミノ酸が発見された。地球の誕生以前から地球外の宇宙においても、アミノ酸合成により生命の発生に連なる可能性があるということになるので、生命に関し、その無限性を示唆する仮説も発表されている。今後更に研究が進み、生命の発生に至る理論と実験が周備して、よしんば種々の高等生物さえ作り出すことに人間が成功したとしても、それは自然の法則の利用と適用であって、生命それ自体の不可思議を解明したことにはならないのである。
 渺茫(びょうぼう)たる砂漠の中に、到底生命の存在を許しそうにない枯渇した環境においても、様々の動植物あるいはバクテリア等が生まれ、徘徊浮遊している。太陽の熱と光、植物の光合成、含水炭素と葉緑素に太陽の光が作用してできる酸素の造成等、更に複雑高度な生成が無数に生じて客観的な条件が整えば、そこにおのずから生命が生ずるといわれる。しかし、これらを生ずる力の根本は何であるか。それは自らによるか他によるか。自他共因によるか無因によるか、その本質を物質と見るべきか精神と見るべきか、エネルギーの実体は何か。その本源的・達観的な把握こそ、まさに宗教の分野といえる。

 

 特に仏教では四生(ししょう 胎生・卵生・湿生・化生)を説かれ、生命に関する深く広い相を示している。この辺より深く考察するならば、物質も物質でなく精神であり、精神も精神でなく物質である。一も一でなく多であり、多も多でなく一である。究極的に不可思議なエネルギーの発展活動が生命である。これに対しての仏教の聖者の観照は、総体的・本質的であり、生命の発生とか進化という変化の一々にちて、分析や実験を行なう科学とは次元が異なっている。すなわち仏教では、一切万物の生命的要素、ないし生命それ自体が元々存在し、それが縁に触れて発現してくるという見方に基づき、その発生変化する根本要因、すなわち生命の本質を示されるのである。
 そしてそれは、ただちに生命それ自体である具遍の意義をもって、一切を照見し尽くされるのである。但し、その仏の教説には方便と真実があり、方便の仏教中に業感縁起・如来蔵縁起等、広く生命の三世にわたる因縁因果の諸相を一分一分述べているが、その真実相を正しく説き顕わしていない。唯一の真実の教法として、生命の真相を言説のうえに示されたのが、迷悟因果十界三千を一念に統(す)べる法華経であり、またこれに対する天台大師の解釈である。そしてこの法華経の実体、換言すれば生命の全体究竟相を顕わされたのが末法出現の日蓮大聖人である。

 

 日蓮大聖人は『持妙法華問答抄』に
 「命已(すで)に一念にすぎざれば、仏は一念随喜の功徳と説き給へり」

                              (平成新編御書299)
と仰せられた。我々の生命の存在を明確に認められるものは現在の一念に過ぎない。
 この一念は過去からの総結果である成果、集積の一念、あるいは前念に対する後念と見ることができる。この辺からは「果の一念」といえる。
 またこの一念が未来への原因をなす可能性・創造性の一念、あるいは後念に対する前念と見るときは「因の一念」と考えられる。したがって一念を挙げるとき、因と果がともに具わっている。また時の永遠は、現在の一瞬一念に具現して余すところがない。ここに生命の根底に潜む深い意義が存する。これを因果倶時の一念という。

 日蓮大聖人は、あらゆる生命の相・性・体がこの一念にあることを喝破せられるとともに、ここに生命の本源的実在が存することを、『当体義抄』に「因果倶時・不思議の一法」(平成新編御書695)として明確に示された。この不思議の一法とは、一切万物に共通に遍満する生命のことであり、それはまた一念の命である。
 この一念に空仮中の真理が宛然として具わり、三に即して一、一に即して三である。このように不可思議な生命、一切万物が互いに具有して無限の意義を含む生命を妙法蓮華経という。
 一切の存在は、その当相・当体に他のすべての存在の因子を具えており、物は心を、また心は物を、あるいは全に個を、個に全を具備しつつ、限りなく因縁の作用によって冥伏(みょうぶく)し顕現し、一切の可能性と現実性を含んで進展する不思議な生命なのである。

 

 宇宙法界の一切は、全体的把握から見るとき、そのまま一大生命体であるから、適当な条件が具われば無機物質から有機物質ないし生命体への変換も、その逆の転換も自在であり、仏教でいう有情から非情へ、非情より有情への移り変わりも、本来一身所具の有情・非情の変転にすぎない。一色一香も中道(ちゅうどう)であり、一草一木にも十如の理法と十界の生命を具えている。無限の融通性と遍満性を具えた生命こそ各々の一念にほかならない。宇宙法界は広く、人生八十年は長いといっても摑まえどころはこの一念である。この一念がすなわち尊厳であり、自由であり、平等であるところに真の自覚が存する。
 このようにいっても、衆生の心は迷妄で、我利我利の六道輪廻(りんね)に執われている。妙法蓮華経の大鏡のみが明々白々に生命の真実相を映し出すのである。渺(びょう)たる我々の一念が、そのまま法界不思議の成仏の命と顕われる道は、本仏大聖人の悟りの妙法蓮華経を信じ唱えるところに開かれている。

 

 妙法の価値は一切に遍満していても、大聖人が出世して顕示されなければ、他の無数の衆生は、その意義も存在も永久に知ることがない。したがって妙法は存在しないのと同様である。事々物々に即し、迷妄の衆生が妙法の当体であるということも、仏の悟りについていえることで、迷いの衆生がみずから理解できることではない。ゆえに本仏大聖人が出現され、命をかけた法華経の行者の絶大な振る舞いにより、法界の不思議を顕わし、またその妙法の実体を一念三千・草木成仏の原理において、本門の大曼荼羅と顕わされた。この本尊を受持し信心口唱することにのみ、一念の生命に無限の意義と価値を実現しうるのである。ここにあらゆる精神界・物質界の現象を、総合的かつ分科的に研究する科学に対し、これを根本的に嚮導(きょうどう)すべき唯一無二の仏法が存するものといえよう。

 

 日蓮正宗 妙通寺(妙通寺・日蓮正宗でも検索可)

 名古屋市中村区烏森町3丁目24番地 地下鉄東山線「岩塚駅」下車徒歩10分

 

 

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