「死者の霊が見える」「霊のたたりが怖い」という方へ

「霊魂(れいこん)」というと、すぐに幽霊(ゆうれい)とか悪霊を連想し、霊媒(れいばい)や心霊現象などが頭に浮かんできます。しかし、ほんとうに「死者の霊」は存在するのか。死後の世界は、いったいどうなのか。私たちには興味のあるところです。


 人が亡くなると肉体は滅びますが、目に見えない霊魂が肉体を抜け出してどこかに存在するのではないか、といった考え方から、幽霊や祟(たた)りなどが恐怖の対象となる場合があります。一方では、亡くなった人の霊が神聖視(しんせいし)され、信仰の対象とされる例も少なくありません。

 

※1 たとえば平安時代、政争に負けて都から追放された菅原道真が非業の死をとげたことから、その祟(たた)りを恐れた人々が道真の魂を鎮(しず)めるために設けたのが天満宮という神社のはじまりです。

 ところが本来、“生命活動”という計り知れない不思議な現象は、仏法で説く「三世にわたる生命観」によってのみ、はじめて、その真実相を説き明かすことができるのであり、その他の知識では、その本質を正しくとらえることはできません。

 仏教、とくに法華経では、三身(さんじん)の常住(じょうじゅう)を説きます。わかりやすくいえば、仏様は亡くなっても、その仏が説いた真理の法や仏の智慧(ちえ)、人々を救う慈悲の力用(りきゆう)は常にこの世界に存在し続け、人々を導いていく、ということです。これからすると、私たちの生命の中にも、境遇(きょうぐう)の違いはあっても、仏としての命の一部が具(そな)わっており(法華経の一念三千の法理から、どんな人の生命の奥底にも、仏界といって仏様のような広く慈悲深い心が具わっていると説かれる)、私たちの命も、死後も永遠に、この世に存在し続けると理解できます。

  ※法華経では、亡くなった人の生命は、天国や極楽浄土のような遠い世界に行ってしまうのではなく、我々と同じこの世界(娑婆世界・しゃばせかい)に永遠に存在し続け、生死を繰り返すと教えています。

 


死後の生命については、概略(がいりゃく)、次のように推察されます。

 

 亡くなった人の生命は、大宇宙の生命体とともに存在し、いろいろな縁によって、時がいたると、ふたたび、この世に生まれ出ることになります。そしてその肉体は、過去世における自分自身の行ない(業因・ごういん)をもとに、宇宙の物質によって形成されていくのです。そしてまた、一生が終わり死に至るとき、その肉体は分解され、ふたたび宇宙の物質へと戻っていきます。生命自体もまた、大宇宙の大生命体と渾然(こんぜん)一体となって冥伏(みょうぶく)し、その繰り返しが永遠に続いていく ~ これが、生命の生死の真実の姿であると仏教では明かされているのです。


 さて、大宇宙の生命体に溶(と)け込んだ死後の生命は、過去世からの報(むく)いによって苦楽を感じていきます。(悪行を繰り返した人は、死後に、“苦しみ”としてその報いを受け続けていく~自身の体を傷つければ、その痛みがしばらく続くように~ことになります)そうしたなか、苦しみや強い怨念(おんねん)、または心残りなどは、その想(おも)いが強ければ強いほど、生きている人間にも感応(かんのう)・伝播(でんぱ))し、人によっては、まれに死者の言葉が聞こえたり、死者の姿のようなものが見えるといった種々の作用を感ずるのです。

 世間の人の多くはこれを、霊魂(れいこん)の働きであり、実際に、霊魂がそこに現われたものと考えるようです。しかしこれは、あくまでも、敏感な人が、そうした死者の生命の作用を感じ(感応~感じてそれに反応し)ているだけであって、実際に、そこに死者が、生前の姿そのままで現われたり、声が聞こえているわけではありません。(敏感な人の五感(ごかん)に、死者の想いが伝わるということです)

 

亡くなった後にも、生前の姿が、そのまま残っているということはあり得ません。

 

  たとえば赤い服を着たまま亡くなったからといって、死後の世界でも、ずっと赤い服を着けているはずはないのです。それが、敏感な人には見えるというのは、たとえば、私たちは、よく知る人物から電話がかかってきたとき、実際に相手の姿を見ているわけではないものの、会話から伝わってくる相手の機嫌や体調の良し悪し、電話をかけている場所の雰囲気などで、あたかも、電話の相手が眼前にいるかのごとく、その様子や姿を如実(にょじつ)に想像できる場合があります。

 これと同じように、死者の生命に対して敏感な人には、あたかも眼前にその人物がいるかのごとく、実際に見えたように感じているということです。むしろ、死者の生命に、姿形(五体)という実体がないからこそ、時空を超越して、自由自在に、どこへでも、誰にでも、その想いを伝えることができるとも言えます。

 

 場所についても同様に言えます。つまり、死者が何らかの理由によって、どうしても、その場所への執着心が捨てきれず、あるいはその場所で辛(つら)い事があり、その苦しみが忘れられずに、その場にやってくる人のなかで、とくに敏感な人には、その特定の場所に対する死者の想いが伝わる場合もあると考えられます。

 この感応(かんのう)は、生きている我々の側からも、亡くなった方々の生命に影響を与えることがあります。つまり、生きている私たちが不幸であったり、悲しみに暮れた生活を送っていれば、おのずと先祖の生命にも、その辛(つら)さ、悲しみが伝わってしまうということです。

 その逆も言えることであって、我々が行なう妙法による先祖供養、とくに塔婆(とうば)供養などの追善(ついぜん)供養 ~ 遺族の強い信仰心と御本尊(ごほんぞん)の偉大な利益(りやく)により、亡くなった方の生命を、成仏の境界(不安や焦燥感(しょうそうかん)、苦悩の無い安らかな状態)へと導くことが追善供養の意義であり、それは南無妙法蓮華経の御本尊による感応妙(かんのうみょう)の功徳力(くどくりき)によるのです。

 

 こうして考えると、世間で言われるような「幽霊(ゆうれい)」などは具体的に存在するわけではないことがわかります。所詮(しょせん)、生といい、死といっても、我々人間は、一つの生命活動における、状態の変化の一片を見ているに過ぎないのです。

(例:水が氷となったり水蒸気になったり、姿、形や性質は変わっても、本質は変わらないようなもの)

 世の中ではかつて、不幸や災害が重なったりすると、それが特別な悪霊(あくりょう)によってもたらされたものと信じ、その悪霊を恐れるあまり、神として祀(まつ)り、その祟りを鎮めようと考えました。(さきほどの天満宮の例※1など)
 また人は、ひとたび悪いことが重なると、「何かよくない力が働いているのではないか」と不安になり、お祓(はら)いや祈祷(きとう)などに頼ってしまうわけです。
 たしかに、死後の生命の状態が、ときには生きている人に感応することもあり、また亡くなった人が受けた苦しみが遺族に伝播し、遺族の生活や人格形成に影響を及ぼすこともあります。
 しかし、それらはあくまでも、因果応報(おうほう)によるもので、他人に責任をなすりつけるための口実に過ぎない“祟り”や“呪(のろ)い”などとは、まったく違うものであることを知るべきです。 


 そのほかにも、我々の認識では説明のできない不思議な現象は数多くありましょうが、それらの真相をすべてを知り尽くすことは、私たちには到底不可能なことです。しかし、原因や真相がよく分からないからといって、むやみに恐れるあまり、日常生活が制限されたり、苦悩のあまりに病気になってしまうことこそ残念といえます。

 また、不安な心理を悪用され、低俗な宗教や思想に騙(だま)されて、お祓いなどを繰り返した結果、さらに悪業を積み重ねることにもなりかねません。
  仏法では、因果の法則が根底となって、すべての人間生命の救済が説かれています。つまり過去の自分の行ないが原因となって、報い(結果)をもたらすのであり、悪い原因をつくれば必ず悪い結果が出てきますし、良い行ないを繰り返せば、その結果も自然と良いものとなっていく。
 どんな状況にあっても、すべては自身の振る舞いの結果、みずからが招いた状況なのです。よって、私たちが今、困った状況にあるならば、まず第一に自身の振るまいを正し、最高の仏法である南無妙法蓮華経の御本尊を信じて、人生を正しく充実したものへと変えていくことこそ、根本的な解決方法といえます。
 私たちが、南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら、元気に明るく過ごしていくところに、私たちに縁の深い先祖の苦しみをも消滅し、先祖の生命を成仏させる最高の道が存することを、よくよく知っていただきたいと思います。

 


具体的に~「どうしたら霊を見なく(感じなく)なるか」

  あなたが現在、「死者の霊などが見える(感じる)」ことにより、精神的にも肉体的にも悩んでおり、「一日も早く、見えなく(感じなく)なりたい」と願うならば、具体的に、どのようにしたら良いでしょうか。
 まず、焦って、「除霊(じょれい)」などを売りにする宗教には、ぜったいに頼ってはいけません。なぜなら、そうした除霊を生業(なりわい)としているような人々は、「宇宙法界に遍満(へんまん)する大生命体の実相を、正しく説き明かした法華経の原理」を知る術(すべ)を持ちません。ですから、そうした「生命の実相(じっそう)・実義(じつぎ)」を知らない“素人(しろうと)”に、中途半端な祈祷をされれば、あなたの精神状態は良くなるどころか、“頭破作七分(ずはさしちぶん)”といって、最悪の場合、あなた自身が「精神異常」を来(きた)す恐れがあるからです。「法華経の極理(ごくり)」を知らない祈祷師に、何かを相談してもいけませんし、近寄ってもいけません。(面白半分に、そうした祈祷師に近寄ることで、謗法(ほうぼう)与同罪(よどうざい)により、それこそ謗法の毒気(どっけ)が感応(かんのう)する恐れがあります)

 

まずは、落ち着いて!

 あなたが感ずるその精霊(しょうりょう・亡者の生命)は、「あなたを、どうこうしてやろう」との悪意をもって、あなたに影響を与えているのではないでしょう。おそらく何らかの理由、たとえば「生前、自分が行なった罪障(ざいしょう)によって成仏できずに迷っている」、「謗法(ほうぼう)の害毒(がいどく)による強烈な苦しみから、なんとか逃(のが)れたい」「現世に熾烈(しれつ)な心残りがあり、それが忘れられない」等の理由があり、何らかの縁があるあなたに、救いを求めているのかもしれません。
 ですから、その精霊(しょうりょう)をどこか遠くに追い払おうとするのではなく、その生命を南無妙法蓮華経の御本尊(ごほんぞん)の利益(りやく)によって成仏させていけば、以後、あなたに感応(かんのう)することは完全になくなるのです。

 それでは、具体的に、その精霊を成仏させていく方法についてですが、
  あなた自身が読経(どきょう)(法華経方便品・寿量品の読誦)と唱題→南無妙法蓮華経を唱える)を行ない、「自他(自分と皆)ともに成仏できるよう」、日蓮大聖人の正しい御本尊(ごほんぞん)に祈り、追善(ついぜん)回向(えこう)していく。
 

  それを続けても、なかなか嫌な感覚が抜けない場合、あなたとその精霊(しょうりょう)との間には、よほど、遠い過去世からの深い因縁(いんねん)があるのかもしれません。よって、そういった場合には、妙通寺に参詣し、住職に相談したうえで、「妙法蓮華経」との題目が認(したた)められた塔婆(とうば)を建立(こんりゅう)することで、その精霊(しょうりょう)を成仏の境界(きょうがい)へと、強力な力で導いていくことができます。

 そうすれば、その精霊は安心立命(あんじんりゅうみょう)の境界を得て成仏し、以後、あなたの五感(五根~心に感じたり、眼に見えるような感覚を受ける)には、むやみに働きかけをしてくることはなくなるはずです。

 

 ※ただし、こうした解決方法である「読経・唱題」や「塔婆供養」は、あなた自身が日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)寺院の檀信徒(だんしんと)になることが前提となります。

 なぜなら、あなた自身が信じてもいない御本尊に、いくら形式的に手を合わせたとしても、あなたの願いや志が、御本尊に届くことはないからです。
 こうした理由から「日蓮正宗」では、「宗派を問わず、なんでも引き受ける」ことは、絶対に行なってはいないのです。
 もしもあなたが、「霊」について悩んでいるなら、すぐに妙通寺を訪問し、住職に相談すべきです。

 妙通寺では、悩みを打ち明けてくる人を無理矢理入会させたり、あるいは入会(入信)してもいないのに、塔婆供養やその他の祈念を行なって金銭を要求するようなことは、ぜったいにありません。

 ですから、あなたは安心して、妙通寺住職に一切を託して相談してみてください。そして、できうるならば自発的に日蓮正宗の信仰を持ち、「南無妙法蓮華経」の御本尊に縁を持つことができれば、心から納得できる解決方法を見つけられるはずです。

       以上『正しい宗教と信仰』記載の文章を基に、筆者がまとめたもの。
   

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info