日蓮大聖人 御会式(おえしき) ご挨拶
本日は、当妙通寺の御会式(おえしき)を奉修申し上げましたところ、講頭様をはじめ役員の皆様、総代各位、ご信徒一同にはご多忙のなかご参詣いただき、誠にありがとうございました。
この御会式は、日蓮大聖人が亡くなった日にちなんで行なわれる行事です。ですから、普通でしたら法事です。しかし、日蓮正宗では古来、桜の花をつくって御本尊様の御宝前をお飾りし、参詣の方々に赤飯やお菓子、果物などのお下がり物をお配りして、お祝の行事として賑やかに行なう慣例となっております。
「法事をお祝いする?」とはどういうことか。それにはいろいろな深い意義がありますが、一番の理由は、日蓮大聖人様こそが、末法の有縁(うえん)の仏様であり、その仏様によって私達が成仏させていただく、その御恩徳に心から感謝申し上げること、このことに尽きるものと思います。
日蓮大聖人はご一生にわたり、法華信仰を弘められ、その一番中心の教えとして、南無妙法蓮華経と認(したた)められた御本尊を遺されました。日蓮大聖人は、釈尊の仏像ではなく、この大曼陀羅(まんだら)に、ご自身の仏としての尊い功徳を込められ、すべての人が拝むべき本尊として定め置かれたのです。そうして、誰もが、この御本尊に題目を唱えることにより、日蓮大聖人が法華経の真義を悟られた功徳により、ありのままの姿で成仏し、幸せになっていくことができると教えられました。「ありのまま」というのは、簡単に言えば、「背伸びをしすぎない」ということです。
人生の中では、一生懸命に勉強して、働いて立派な家に住む。それはけっして悪いことではありません。あるいは、世の中に広く貢献して、自分の名前を歴史に残していく。こうしたことも大変にすばらしいことであります。そういった努力は、自己の境界(きょうがい)を高めるため、とても必要な努力だけれども、それでもやはり、気をつけなければならないことは、私達は、あまり背伸びしすぎてもまた、かえって自分が苦しむ結果となるということです。法華経で教える「ありのままの幸せ=成仏」というのは、自分らしく、素直な心で人生を生き抜いていくということこそ真の幸せなんだということなのです。
この世の中、男性とか女性とか、そういう厳然とした区別はあります。これはもう仕方がありません。他人と自分は違う。あるいは、生まれながらに病気がある、悪い癖がある、怒りっぽい。誰にも、そういった欠点もあります。もちろん、欠点のなかでも、努力して直せるところは、がんばって、直していかなければなりません。しかしそれでも、私達は自分らしくあるがままの姿で、生きる目的を見失わないこと。毎日を感謝と喜びの心をもって、自分らしく生き抜いていくこと。それこそ、本当の幸せなんだと。病気の人は病気だから不幸なのではなくて、その病気によって、心が病気になってしまう、それが不幸なのです。病弱なのは、もうこれは仕方がないことで、「そんな体に産んだ両親に文句を言う」。そんなことをしても何にもならないのです。
昔のインドに竜樹菩薩という方がいました。この方が書いたとされる『大智度論』という書物に、次のようなくだりがあります。
「今、我が疾苦(しっく)は、皆過去に由(よ)る。今生(こんじょう)に福を修(しゅう)すれば、報は将来にあり」(引用部分 大石寺版法華玄義下22)
つまり、今、私達がかかえる病気は、誰のせいでもない。生まれる前、前世において、自分が行なった結果が、今の病気となって、我が身に現われてきたものである。でも、諦める必要はない。なぜなら、前世の結果で、今、病気と闘っているのであれば、今世において、善いおこない。すなわち南無妙法蓮華経の信仰を持っていけば、必ずその罪は消滅し、これから先に、良い結果が現われてくることとなろう」ということであります。要するに、「他人ではない、全部、自分次第なんだよ」ということです。
だから今は、残念ながら病身である、でも、勇気をもって病気と戦いながら、それに、心が負けてはいけない。仕事のことで悩むことも多いけれども、そうしたことで、毎日、泣きながら暮らしていては、それこそ何のための仕事だかわからない。辛い毎日のなかに、わずかでも光を見つけていく、生き甲斐を見つけていくのが、この南無妙法蓮華経の希望の信心なのです。
生身(なまみ)の人間は、必ず年老いて、やがて死んでいきます。それは仏様も同じです。しかし、仏様が私達と違うところは、けっしてあきらめたり、愚癡をこぼしたりしない、という点です。年を取ったからといって、人生を投げ出さない。たとえ、今、自分が病気であっても、他人の幸せをいつでも願い、みんなに幸せになってもらおうと真心を尽くしていくのが仏です。他人のためにこそ、自分が率先して一生懸命に生きていく。インドの釈尊も病気と闘い、日蓮大聖人もまた病の中にあって南無妙法蓮華経を弘め、一人でも多くの人を幸せに導いていこうと。そういう努力を惜しまずに行なわれたのです。それはたとえ、年老いて、寿命が尽き、死んでしまったとしても、そういう尊い命、崇高(すうこう)な心はいつまでも、人々を導き続けていくということ。これが三世常住の仏の命、ということであります。
お話に戻しますと、弘安5年10月13日は、日蓮大聖人様が亡くなった祥月命日ではあるけれども、一方では、私達の目の前の、この御本尊様に大聖人の法魂(ほうこん)は宿り、いつも私達の信心を見守って下さっている。そういう尊い姿こそこの「三世常住の徳」を具現化(ぐげんか)したものなのです。よって今は、大聖人のお墓参りをすることが大事なのではなく、御本尊に題目を唱え、そして大聖人の広大無辺の大慈悲心を拝して、私達も大聖人の振るまいに連なり、自行化他の信心をお誓いし実践することこそ、真の報恩行となる。そのことをお互いがしっかりと信心の心に、あらためて刻んでいくこと、それがこのお会式法要に参列する大切な意義です。
日蓮大聖人は、本当の幸せについて、
「人のためによる火をともせば、人のあかるきのみならず、我が身もあかし」(御書751)
と教えられました。
他人の幸せを祈り、行動できる人は、結局は、自分自身がもっとも幸せになれる、そういう意味であります。私達も、毎日の生活の中で汲々(きゅうきゅう)として、次から次へと、色々な困ったことが起こって参りますけれども、自他共に、この南無妙法蓮華経のお題目を唱えて、必ず幸せになっていく。そういう大目標を忘れずに、これからもしっかりと信心、頑張って参りたいと、このように思う次第でございます。
最後に、この御会式を迎えるにあたり、役員さんはじめ、皆様には、お花つくり、大掃除、お飾り、当日の駐車場整理など、細部にわたりまして、本当にご協力をいただきました。皆様のご信心を元とするご厚情に深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。 以上