日如上人ご指南①

 自行化他の実践で、はじめて自身の幸せもかなう

自行化他にわたるということは、やはり大乗仏教の精神がそうなのです。大乗仏教の精神とは、自分だけが幸せになるのではないのです。自分と共に、他の多くの人達も幸せになっていくというのが、大乗仏教の大乗たる所以(ゆえん)なのです。「大きな乗り物」というのは、そういう意味なのです。
 これに対して小乗仏教は自分一人だけのための修行です。だから小乗の人達は自分自身の成仏のためには血のにじむような苦労をして、それこそ到底、我々にはできないような厳しい修行をするのだけれども、二乗の者達は仏様からどのように言われたかというと、「おまえ達は永遠に成仏をしないぞ」と言われたのです。それはなぜか。自分のことしか考えず、他人のことを考えないからです。だから「それでは、おまえ達は成仏しないぞ」と言われたのです。
 それが今、ようやくこの妙法に出会って、小乗の人達も成仏ができるということになったのですが、これはまさに自行化他の信心だったからなのです。だからお題目を唱えたならば、その功徳と歓喜をもって折伏に出向き、人を救っていくことが大事なのです。折伏というのは慈悲行ですから、最高の仏道修行です。
 また、折伏をとおして、自分の様々な悩みを解決できるのです。今日の悩みも、過去から持ち込んできた過去遠々劫の様々な悩みも全部、折伏によって解決できるのであります。要するに、自行化他の題目を唱えていくということ、つまり唱題をするとともに、多くの方々の幸せを願って折伏していくということが大事です。
                         (功徳要文 194頁)

日如上人ご指南 ②

信ずることと、実行すること

 「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず」(御書1519)
という御文があるのです。ここはしっかりと覚えなくてはなりません。

朝夕の勤行もしない、お寺にも行かない、折伏もしない。にもかかわらず、たまたま十年に一回くらい御本尊様にお願いしてみようか、といったところで、それではだめなのです。やはり信心がなければならないのです。
 御本尊様の功徳は、信心の二字をとおして初めて、体得することができるのであります。ですから、有名な御文として、
 「仏法は海の如し、唯(ただ)信のみ能(よ)く入る」(御書1388)
というお言葉がありますように、仏法というのは広大無辺なる慈悲の上に立っているわけであります。

 

これは、どんな人でも成仏に導くという意味で、広くて深い大きな海のようなものであります。だから一見、どこからでもその海に入っていけると思いがちなのですが、それは違います。

仏法という海には、信心という入り口しかないのです。この信心がない状態でも、祈ればなんでもかなうのかというと、けっしてそうではないのです。そこに、朝夕の勤行をはじめ普段の信心が大事だという所以(ゆえん)があるのです。


 それこそ智慧(ちえ)才覚(さいかく)のない小さな子供であっても、本当に一生懸命にお題目を唱えていくと、そこには必ず功徳があるのです。

しかし、どんなに智慧がある、舎利弗(しゃりほつ)尊者のような方であったとしても、その智慧才覚をもって仏に成ることはできない。

「以信得入」(いしんとくにゅう)という言葉で表されるように、信心によって初めて成仏できるということであります。
 「よし、今日はいいことを聞いたぞ。そうか、祈ればなんでもかなうのだな」ということだけではなく、やはり御自分で努力をしてください。努力なくして、何事もかないません。
                          (功徳要文 214頁)

日如上人ご指南 ③

「さぼり」「ものぐさ」は、よくない結果ばかり生む

「精進(しょうじん)」というのは、諸々の善法に励み、やむことなく継続することであります。

遣教経に
 「たとえ小さな流れであっても、絶え間なく流れていけば、大きな石でも穿(うが)つことができる」
とあります。また、よく世間でも「学問に王道なし」とか「学問に近道なし」ということをいいます。


 これはまことに大事なことでありまして、何事も努力なしに、手軽に身につけられる特別な方法などということはありません。努力ということを怠れば、当然の如く、何事も成就することはできません。


 努力を怠る。つまり懈怠(けだい)謗法は、十四誹謗のなかにもありますが、そもそも懈怠とは、怠慢(たいまん)、懶惰(らんだ)、横着(おうちゃく)、ものぐさ、無精(ぶしょう)、ずぼら、ということを言うのであります。


『大智度論』のなかには
 「懈怠は不善を増長す」                      
という言葉があります。つまり、懈怠があれば、悪を断ち、善を修めることができないということで、我々の広布の戦いのなかにあって、このようなことがあっては、けっしてならない。                            (平成26年3月)

 

日如上人ご指南④

  「行動の年」の信行に邁進しよう

 

 大聖人は『一念三千法門』に

 「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も癒えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつ(渇)へ、懐に薬を持ちても飲まん事を知らずして死するが如し」(平成新編御書110)

と仰せであります。

 この御金言の如く、何事も事を成すためには、行動を起こさなければ成るものも成らず、単なる空理空論に終わってしまいます。『大智度論』には

 「梯(はしご)は一の初桄(はしごの最初の横木)より漸(ようや)く上るに、上る処高しと雖も、難しと雖も、亦た能く至ることを得るが如し」

とあります。何事も事を成すには、一歩一歩堅実に進むことが大事であり、肝要であると訓誡されています。

 折伏も同様、日々弛まぬ努力を続けていくことが最も大事なのであります。特に折伏は自らが実践していかなければ功徳はなく、それは、あたかも他人が薬を服しても自らの病気は治ずることが出来ないのと同様であります。また『諸法実相抄』には

 「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(平成新編御書668)

と仰せられ、日々普段の信心において、たとえ一言一句なりとも、一天広布を願い、相手の幸せを願い、また己自身の幸せを築くためにも、弛まなく折伏を行じていくことが肝要であります。(大日蓮 平成三十年一月号 4ページ)

 

 

菩提寺に参詣して妙法の話を聴き、実践に移すことが大事

 

 そもそも我々にとって学ぶということは、まことに大事であります。例えば、いかに才能が優れた人でも、他から法を聞いて学ばなければ、善悪さえもわきまえられないようになります。仏法もまた聞法(もんぽう)、すなわち法を聞くということが大事でありまして、聞法によって学び、そして学ぶことによって成長するのであります。

 『毘婆沙論』のなかに

 「譬えば闇室中に種々の物ありと雖も、灯(ともしび)なくしては、目ありとも見る能(あた)はず。…目ある者も灯によって、衆色を見るが如し」

とあります。

 目があっても、暗闇では暗くて物が見えないが、灯りがあれば、それを見ることができる。つまり、灯りとは智慧のことを指し、まさしく仏法を広く聞き、多く学ぶことによって智慧が生ずるのであります。しかし智慧があっても多聞に優れた者も、実際に修行が伴わなければ、なんの役にもたちません。

 

 

勤行唱題こそ基本

 

 毎日の心がけとしては、朝晩の勤行をしっかり行うことが最も大切であります。朝夕の勤行は仏道修行の基本であり、大御本尊様の計り知れない大きな功徳を受ける元であります(略)そもそも、勤行とは時間を決めて行うもので、日によって勤行の時間が異なるというのではなくして、時間を決めて毎日、欠かさずに行うことが必要であります。また家族がそろって行うことも大切であります(大日蓮 平成22年9月号 65ページ)

 

 

 

  大石寺へ登山し大御本尊に参詣することこそ最高の功徳の源

『南条殿御返事』には

 「此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(平成新編御書 1569ページ)

と仰せであります。「此の砌」とは、すなわち本門戒壇の大御本尊まします、ここ総本山大石寺であり、総本山に登山参詣する功徳は計り知れないものがあり、まさしく「三業の悪」すなわち身口意の三業にわたるすべての悪業を転じて「三徳を成ぜん」と仰せであります。

 三徳とは、法身・般若・解脱を指します。すなわち仏様に具わる三種の徳相のことで、「法身」とは仏証得の真理、「般若」とは真理を悟る智慧、「解脱」とは法身・般若の二徳が一如となり、生死の苦海から脱却した状態を言います。

 かくの如く、戒壇の大御本尊まします総本山大石寺に登山参詣する功徳は、この三徳を成じ、計り知れないほど大なるものがあると仰せられているのであります。

 されば、このたび海外信徒の皆様には、様々な困難を乗り越え、渇仰恋慕の心をもって総本山に登山参詣されたことはまことに尊く、必ず皆様には計り知れない大きな功徳を享受されるものと心からお祝い申し上げますとともに、これからもいよいよ信心強盛に異体同心・一致団結して、一天広布を目指し、自行化他にわたる信心に住されますよう心からお祈り申し上げ、一言もって挨拶といたします。

           (平成30年8月25日 海外信徒夏期研修会 開会式の砌)

 

 

◇「信なくして此の経を行ぜん」(法蓮抄)の真の意味とは?

 「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」(御書814㌻)とあります。この御文については、御隠尊日顕上人が、昔、非常に大事なことを仰せられているのであります。

 それはどういうことかと申しますと、信なくしてこの経を行ずるということは、いったいどういうことか。つまり、信心も何もない者が法華経を行ずることが果たしてあるのか、ということです。普通はこんなことはないと思われます。しかし、ここには「信なくして此の経を行ぜんは」とおっしゃっている。ではこの「信」とはいったい何かということが大事であると、日顕上人は御指南あそばされているのです。

 法華経を信ぜずして、しかも行じない。行じないということは、信じないということに通ずるわけで、そういう人が末法にたいへん多いのであります。しかし、信が全くないにもかかわらず、法華経を行ずるということは、いったいこれはどういうことなのかと考えてしまいます。

 結論から言いますと、「信なくして」ということは、大聖人様の仏法の根源たる本門戒壇の大御本尊様に対して疑いの心を持つ、あるいは日興上人、日目上人より今日に至るまで厳然と伝わるところの血脈法水、仏法の本義に対して、疑いを持つということなのです。そして、そのような者は、いくら御本尊様を拝んでも功徳がないということで、血脈正統の正しい信心でなければならないのであります。

 その意味から言えば、まさに今日の、下種三宝を破壊した池田創価学会、あるいは血脈を否定した自称正信会、また顕正会、これらの者達は、まさしく「信なくして此の経を行」ずる者になるわけですから、この御文の御指南のように、いくら拝んでも功徳はないのです。根本のところが間違っているわけですあら、そのような者は「手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」であると、大聖人様は厳しくおっしゃっているのです。

 これは信心の上で、極めて大切なことであります。血脈正統に背き、大仏法の奥義に相反する信心をしている者のことを、大聖人様はこのようにおっしゃっているのであります。

 そういったことから考えますと、今日、大聖人様の正しい仏法を正しく行じさせていただける身の福徳ということを、私達一人ひとりが本当に感謝していかなければならない、心から尊く存じていかなくてはならないのです。これほどすばらしいことはないのであります。

(信行要文② 13㌻)

 

 

◇魔は仏には勝てない

 「魔は絶対に仏様には勝てないのです。その確信のもとに、どんな魔が起きた時でも、私達は御本尊様を第一に、しっかりと自行化他の信心に励んでいけば、おのずと魔は必ず退散するのであります。その意味で、私達は魔を全く恐れることなく、なお一層の確信を持って、いよいよ強盛な信心に励むことが最も大事であります」(御書要文 2-228㌻)

 

 

◇破邪あって顕正も叶う

 『曽谷殿御返事』には、「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入、失本心故』とは是なり」(御書一〇四〇)と仰せであります。これらの御文を拝し、私ども一同、コロナ感染症によって世情騒然としている今こそ、講中一同、意を決して立ち上がり、一人でも多くの人々に対して、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の仏法の広大無辺なる功徳を説き、折伏を行じていかなければならないと思います。(大日蓮・令和三年四月号)

 

 

◇日蓮大聖人の「第三の法門」とは?

 『常忍抄』には、「法華経と爾前と引き向けて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節の事に三つの様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了へず。所詮末法の今に譲り与へしなり」(同一二八四㌻)とありますが、大聖人様の仏法は種脱相対して立てたところの、いわゆる「第三の法門」であります。まさしく、それは法華経文上脱益の法ではなく、法華経本門寿量品文底下種の南無妙法蓮華経であります。

 しかるに、他門日蓮宗の各派では、大聖人様のこの「第三の法門」と、天台の立てた「三種の教相」とを混同しているのです。

 まず、天台の三種の教相とは、天台大師が『法華玄義』に、「一に根性の融不融の相、二に化道の始終不始終の相、三に師弟の遠近不遠近の相」(学林版玄義会本上五七㌻)と説いたものでありまして、これによって法華経が、ほかの爾前権経よりも勝れていることを明かされているのであります。

 このうち、初めの「根性の融不融の相」とは、衆生と仏の機根が融であるか、不融であるかを判じたものでありまして、衆生の機根が一仏乗と差別なく融合しているか否かによって、法華経迹門と法華経以前の経である爾前経との勝劣を判じたものであります。

 爾前経では、衆生の桟根が未熟である故に、声聞・縁覚・菩薩の三乗に区分されて説かれておりまして、つまり仏の命と融合することがありませんので、これは「不融」となるのであります。これに対して法華経では、方便品に至りまして衆生の根性が熟し、三乗を開顕して一仏乗に会入するので、根性が「融」となる故に法華経が勝れていると判じているのが、一番目の根性の融不融の相であります。

 二番目の「化導の始終不始終の相」というのは、衆生に対する下種益・熟益・脱益の、化導の始終が明かされているか否かによって、法華経迹門と爾前経の勝劣を判ずるものであります。

 爾前経におきましては、衆生に対する釈尊の種熟脱の化導が説かれていないので、これは「不始終」となります。それに対し、法華経では迹門の化城喩品におきまして、三千塵点劫の大通結縁の下種益と、中間・爾前の熟益、さらには迹門における脱益が明かされているので「始終」となります。この故に、法華経迹門が勝れていると判ずるのであります。

 三番目の「師弟の遠近不遠近の相」というのは、仏すなわち師匠と、衆生すなわち弟子の関係におきまして、久遠以来の関係が明かされているか否かによって、法華経本門と爾前迹門との勝劣を判ずるものであります。

 爾前迹門では、釈尊はインドで誕生し、菩提樹下で成道をした、始成正覚の仏という立場であり、まだ仏の本地身と衆生の久遠以来の関係を明らかにされておりません。したがって、爾前迹門の教えは「不遠近」となります。これに対して、法華経本門の寿量品では、釈尊は久遠の本地を開顕し、久遠以来の師弟関係を明らかにされました。これによって本門寿量品の教えは「遠近」となり、法華経本門が勝れていると判じられているのであります。

 これが天台の三種教相でありますが、この三種の教相は、大聖人様の御法門から見ると、あくまでも一往の義でありまして、再往の深義を明かされていないのであります。

 すなわち、天台の「根性の融不融の相」と「化尊の始終不始終の相」は権実相対の内容でありますから、これは大聖人様の「第一の法門」に相当します。そして、三種の教相の三番目の「師弟の遠近不遠近の相」は本迹相対の内容でありますから、大聖人様の「第二の法門」に相当します。

 大聖人様は、脱益を当分とし、下種を跨節とする種脱相対を「第三の法門」とされているのでありますから、この「第三の法門」こそ、宗祖大聖人様の本意なるが故に、この御書に「日蓮が法門は第三の法門なり」と仰せられているのであります。

                         (大日蓮 平成25年9月号)

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info