日達上人 法華講員へのご指南①

 みなさんの周りにいませんか?  せっかく御本尊に巡り会っているのに“無信”にもどってしまっている人が…

皆さまがよくいうところの、はじめて折伏をうけて信心に入った時、すなわち初信の功徳というものがあります。初信の功徳が初随喜の位であります。
 この初信の功徳を忘れずに最後まで、臨終の最後まで続けていくところに真の信心があるのであります。この初信の功徳を、もち歓喜し続けていけないという人があるならば、それは折伏をすればよいのであります。折伏をして他人を教化していくところに、自分が受けた初信の功徳は、また新たなる功徳になって永遠に続いていくのであります。
 もし折伏を忘れ、他人を教化することを忘れたならば、自分が受けた初信の功徳はいつか忘れて、またもとの、無信の状態に移るのであります。
           (昭和42年8月11日 法華講連合会第四回総会お言葉)

日達上人 法華講員へのご指南②

法華講員でありながら、他人の批判を繰り返す人へ

 人間社会はお互いに生活し助けあっていくのでありますが、われわれ人間は仏ではない、神さまでもない、ゆえにとかく欠点はあるのであります。だから法華講の講中ができ、ひとつの団体ができましても組織はお互いに人間がやっておるのであります。そうすれば、そこには不満もできる、あるいは間違いも出来る。これらの不満とか間違いを、たてにとって、お互いに争い合い、お互いに信じなく、そしてついに自分の根本の信心を忘れるようなことをしては大変なことになるのでございます。

 御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるのが信心であるからして、その信心を助長させるために、一つの集団があり、講中があるのであります…だから少しくらいの不満、また組織の欠点、そういうものによって、その異体同心の団結を破るというようなことがもしあるとすれば、それはすでに信心の退転であると考えなければならない。またそのことが、せっかく信心してきても、それによってかえって地獄に堕ちるというようなことを生ずるのは、まことに残念と思うのであります。

            (昭和42年8月11日 法華講連合会第四回総会お言葉)

日達上人 法華講員へのご指南③

 真の懺悔とは、最高の妙法を実践していくこと

懺悔(ざんげ)ということは、今まで悪い事をしていたから、「ここでこういう悪いことをしました」などと言うことが、懺悔と考えております。

またキリスト教あたりも、懺悔(ざんげ)ということをやらして信心をさせます。

 

しかし本当に懺悔ということは、そういうことでは役に立たないのである。

もし自分が「私は人殺しをしました。どうぞお許しください」などと言って、人殺しの罪が消えるかと思えば、大変な間違いであります。そんなものは懺悔にならないのである。

告白である。告白と懺悔とは違う。今までやってきたことを、いちいち告白したって、さっぱり進歩しない。


 この仏法でいうところの懺悔(ざんげ)は、正しい法を、さらに精進(しょうじん)することである。そして、それ以上に人々を教化(きょうけ)して、正しい法に導くということが懺悔である。自分が迷っていた。今まで悪いことをしていたということは、自分の無智(むち)によってくるのである。その無智を開いて、立派になるところの勝法、勝れたところの法(南無妙法蓮華経)に帰依(きえ)して、多くの人々もこれに導いて(折伏して)、そして更に一層自分が進んで、今までより多くの良いことをして、立派なことをしていくことにおいて、懺悔が成り立つのであります。


 いま、三大秘法の戒壇(かいだん・本門戒壇の大御本尊安置の処=大石寺)に集まって、今までの邪法による迷いを打ち破り、その闇(やみ)を破して、始めて真実の法を得て、世界中の人々がここに正法を立って国土安穏(あんのん)にする時にこそ、本当に懺悔滅罪(めつざい)の意味が存在し、そこに戒壇(かいだん)の意義があるのであります。


 この戒壇には、大梵(だいぼん)天王も、帝釈(たいしゃく)も、共に詣でていくところに、本門戒壇の意味が存在するのでございます。

御書に
 「此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌(じゆ)千界の上首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」。


 本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目は、二千余年の、その昔に地涌千界の上首として、上行菩薩として一応出現して、あの霊鷲山(りょうじゅせん)において、釈尊から現に引き継がれた。間違いなく自分(日蓮大聖人)が引き継いだのである。ただそれは、相承の付属の姿として、こういう形式をとっている。
 「今日蓮が所行は、霊鷲山の禀承(ぼんじょう)に芥爾(けに)計りの相違なき、色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」
 すなわち、日蓮がその二千年の昔、上行菩薩として現われて、あの三大秘法を受けたけれども、今、日蓮がこの末法に出現して、むかし霊鷲山における神力品の相承と、少しも変わらない、色も変わらない寿量品の事の三大事、本尊・戒壇・題目の三大秘法をいま日蓮大聖人が、これを行じて、これを同時に今日、末法に弘通しているのである。
 「今日蓮が時に感じて此の法門、広宣流布するなり」
 今日蓮大聖人様が末法に出現し、末法の仏ということを身に感じ、末法の仏という本懐(ほんがい)において、初めてこの本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇を広宣流布するのであります。ここに正しく日蓮大聖人様の本懐が定められ、三大秘法抄の法門をこれをもって終わっているのでございます。


 どうぞみなさま、あの邪宗の日蓮門下(身延日蓮宗や立正佼正会、霊友会など)の、ただ単なる題目ばかりに迷わされないで、本門の本尊の題目(本門戒壇の大御本尊への信仰を基とした題目)ということを心に留められ、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱え、そして広宣流布をして、みなともに娑婆(しゃば)即寂光(じゃっこう)の境界を築かれんことをお願いして、私の講演と致す次第でございます。
        (昭和37年8月31日 法華講夏期修養会でのご講演の一部を抜粋)

 

 

 

日達上人ご指南

 

 雨止みて ひぐらしの声 ひとしきり

 

 夏木立の深い濃緑の繁みに驟雨(しゅうう)は依然として来たりて熱鉄の大地に降りそそげば、一陣の涼風おこりて、我々の焦熱の苦を救ってくれる。雨止みて夕陽ななめに薄く漏れれば、カナカナカナカナ、カナカナカナカナとひぐらしが声をそろえて高らかに鳴くのである。
 とはいえ近頃、連年の大豪雨と大洪水には、国富を尽くして敗戦した日本に、敗れ残った山河までも尽さしめるのである。これ皆御仏(みほとけ)の大呵責か、実に泣きっ面に蜂の我々国民である。
 眼をお隣の朝鮮に向ければ、韓国は共産軍の突然の侵略によって国の大半を侵されて、まさに東南の一隅に余脈を保って国連軍の援を待っている。まったく我が国民に前轍を示している如くである。あの無謀な大戦に敗れた我が国民は、誰も「もう戦争はいやだ」という。
 この嫌な戦争が、何故に起こるのであろうか。我々国民ばかりでなく、世界中の人々が反省しなくてはならない。宗祖大聖人曰く「人みな、正に背くが故に」と。
 日蓮正宗の信徒が正しく正法に帰して、正宗を守っても、日本国、否、世界が謗法なるが故に、我々は与同罪の果報は、免れ難い。されば、「一天四海皆帰妙法」の願業は一時も止むべきでない。ただ、折伏逆化あるのみ。
 一体、正法者の剱を持つは一闡提の命根を断ずる時である。正法を守るためには、白衣にして剱を持つも持戒とされる。大聖人は
 「蟻子を殺す者は三悪道に落つ、謗法を禁ずる者は不退の位に登る」
と仰せである。正法護持の戦いでないならば、我々の恐れることは「兵奴(ひようぬ)の果報」となることである。
 願はくば広宣流布の、一日も早くして仏国土の実現により、さんさんたる戦火を世界から無くすることである。
                       (昭和二十五年八月 大日蓮掲載)

 

 

日達上人 法華講員へのご指南④      

                    

   慈悲と智慧により、真実の幸福(涅槃の楽)を得ていこう

 

 仏は両足の尊と説いています。両足というと二つの足があるから人間である。人間の中のもっとも尊いものを仏ともいいます。けれども、この二つの足があるというのも、ただ見た姿において足が二本あるということではなくて、慈悲と智慧(ちえ)という両足をそなえたところのものでなくてはならない。人間がこの両足をそなえるところに始めて仏の境界がある。そのもっとも尊いものを仏という。
 両足の尊、われわれが人々の苦しみを救ってやろうと、また親は子供がいろいろの苦しみから、あるものを避けてやろうというのも慈悲の心である。いい物を与えて、悪い物を取り除いてやろうというのが慈悲の心である。そういう慈悲の心は結局、智慧がなければできない。自分の悟りがなければできない。もっとも学問だけの智慧だけではございませんが、そういう智慧を今度は信をもって慧に代えると、日蓮大聖人様はおっしゃっておりますが、信心があれば、そういう智慧がでてくるのでございますが、そういう智慧をもって慈悲の心を起こしていくと、これが両足です。
 また安穏の楽、世間の楽、涅槃の楽という三楽ということが説かれておる。安穏(あんのん)の楽とは、何にもいらない、欲を離れよう、五欲を離れよう。欲を離れれば幸いがくる、楽になると。だから昔は自分の家を出て、山の中に入って苦を去って楽を得ようとした。ところがよく考えてみると、そういう楽が本当の幸福かというと、けっして安穏の楽が幸福ということにはならない。
 自分が世間の苦しみから逃れて、やっと苦がないと思ったけれども、今度、一人淋しさの苦しみがでてくる。なんにもなく山の中に入れば、生活に不自由だという苦しみが出てくる。そこに安穏の楽というものは真実の楽ではない。まだまだこれは本当の楽ではなく、これを小乗楽というのです。
 我々が世間に住んで商売して、失敗しても楽しみがある。また儲(もう)ければますますおもしろい。自動車に乗って走って行けば楽しい。世の中が楽しくなってくる。これを世間の楽という。
 極端な苦しみ、極端な楽しみ、その中庸というところに真実の楽しみというものを考えなければならない。だから生活していて「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうち唱えいさせ給へ」と大聖人様がおっしゃっているとおりに、世間にいながら世間にとらわれずして、本来の仏性、仏の姿というものを開いていく。これが本当の楽しみである。これを涅槃(ねはん)の楽という。
   やはり、どんなに苦しみの家にいても、貧乏とせず、苦しみを苦しみとせず、その信心の力によってそこの中道を悟り、仏を開いていってこそ、本当の涅槃の楽を得られるのである。そういう人こそ立派な人である。これが最高の楽、すなわち南無妙法蓮華経の信心を得て、南無妙法蓮華経のお題目によって、そういう境地を開いていかなければならないのです。

                     昭和三十七年三月二十四日 法華講総会の砌

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info