身体の障害を 母子で乗り越える信心

 

                     山口県防府市  吉森貞子さん

 

 私は昭和34年7月、22歳で入信しました。病弱な私は当時妊娠4ヶ月で、次女を出産することに家族全員が反対でした。私は心臓と股関節が弱く、四十歳過ぎには完全に歩けなくなると言われていたのです。
 その1年ほど前に実家の母が入信した時、「この法華経は、願いとして叶わざるなしの信心です」と言われていたのを思い出し、どうしても元気になって産みたい一心で家族の猛反対の中を入信し、唱題、折伏に励みました。

 

薬禍(やっか)を被(こうむ)って生まれた次女

 翌年、次女を命がけで出産しました。出産した瞬間、医師と看護師が固く押し黙り、産室の空気が凍り付きました。なんと生まれた子供は、肩から両手がないのです。その時の衝撃は、言葉では言い表せません。また後産も胎盤がちぎれて子宮に癒着。大出血し命がけでした。
 今でこそ、両手のない奇形の原因はサリドマイドの薬害だと知られています。不眠が続いていた私は、妊娠していることを知らずにサリドマイド剤を二回飲みました。しかし奇形の原因が薬害とは知る由も無く、主人をはじめ家族、親戚、世間から「お前がおかしな信心を始めて、先祖代々の神棚を焼いたから、このような子供が生まれたのだ」と罵られ、信心への反対はますますエスカレートしました。

 

私も信心してこの子を育てる

 しかしなんとしてもこの子を守り、育てたいと思いました。入信して半年、日蓮大聖人様の仏法については皆無と言っていいほど無知で、ただ御本尊様におすがりする以外になく、文字通り必死で真剣に唱題し、涙の出ない日は一日もありませんでした。
 折伏にも娘二人を毎日連れて歩きました。次女を連れて歩くのは、当初は強い勇気が要りました。幅の広い帯とケープで次女を背中に巻き付け、おんぶしました。夏は私と次女の首をケープで結ぶため、私の背中と娘の胸元は汗疹(あせも)だらけでした。
 折伏先では、「その子に手が生えたら私も信心するよ」と揶揄(やゆ)する方、また反対に励ましてくださる方と様々でした。毎日が生きる事への真剣勝負でした。あまりの苦しさに本当に親子三人で死のうと思い、一度は海へ、一度は線路に立ったこともありました。
 そのような一番苦しかったときに『兄弟抄』の
 「魔競はずば正法と知るべからず(中略)行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる」                         (平成新編御書 986)
という御書を教えていただきました。「真剣に信心に励むからこそ魔が競ってくる。その魔に打ち勝てば罪障が早く消える」と教えられ、毎日が喜びの折伏に変わりました。「御本尊様、どうかこの子が一人で生きていけるようにしてください」と、朝夕必死に御祈念しました。
 当時の私の日課は、朝5時前起床、炊事洗濯、家族の食事、7時から9時まで勤行・唱題。掃除をして10時には子供と出かけます。そして4時までに帰宅して家事と、信心根本に励んだ毎日でした。

 

生活に必要な術(すべ) 次々に身につける

 ある日、縫い物をしているとき、次女が落ちている赤い糸を足の指先でつかもうと、真剣に挑戦していました。しばらくすると、上手につまんで私にくれました。その時「この子は手の代わりに足が使える」と気づき、

 「必ず一人だちできる。五体満足な私が、手を使える感覚で教えたりして娘を迷わせてはいけない。一切、手を出さないでおこう」

と心に決めました。

 「何事も自分でできるという、強い自立心を養わせてやらねば」

と思ったのです。食事も、お風呂で体を洗うことも、髪をとかすことも、自ら挑戦して、日々自分でできる動作が増えました。
 次に自分の力で立って歩く時がきました。両手が肩からないために、なかなかバランスが取れずうまく立つことができません。毎日毎日、柱や襖(ふすま)に背中を押し当てて、ジリジリと上体を上げて立とうとします。けれども頭が重いのでバランスが取れず、頭から倒れてしまいます。畳の上でも頭や顔が傷だらけになり、血が滲(にじ)みます。何度倒れても挑戦します。私は心を鬼にして一切手を出しません。何度も手を貸そうと思いましたが我慢し、祈ってじっと見守っていました。
 ついに2歳を過ぎた頃、自分の足で立てた時の、あの誇らしく幸せそうな笑顔は、今でもこの瞼(まぶた)の裏に焼き付いています。

 

苦難に次ぐ苦難と克服の日々

 それからも毎月大石寺にご登山させていただき、罪障消滅を御祈念し、唱題、折伏に励み、御本尊様の功徳であらゆる困難を克服させていただきました。思いやりがあり次女の面倒もよく見てくれた長女は、小学1年生のとき髄膜炎にかかり、命は取り留めても知能障害と宣告されましたが、約1年で正常にもどりました。中学3年でかかった粟粒(ぞくりゅう)結核も1年で完治しました。
 その後も次女は、小学、高校、短大と、すんなりと普通校への入学が許可されませんでしたが、その都度、諸天善神の御加護を得て、本人の希望通りに普通校に進学させていただきました。在学中にはスキーやボーリングなどスポーツに挑戦し、日本初の、足で運転できる車の運転免許証の第一号をいただきました。

 

心の財(たから)を得、前を向いて生きる

 次女は中学2年生の時、『崇峻天皇御書』の
 「人身は受けたし爪の上の土。人身は持ちがたし草の上の露(中略)蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」        (平成新編御書 1173)
の御文を拝読して、

「この御書で人生や生きることの考え方が変わった。新たに生きる自信がうまれた」

と嬉しそうに話してくれました。さらに二十歳の時に『旅たとう、いま』(日本放送出版協会)という本を出版し、冒頭にこう書いています。
 「昭和35年1月3日午前零時、私はこの世に出てきました。午前零時と聞けば何を思いますか?私は童話のシンデレラの話を思い出すのです(中略)私は午前零時に手のない姿で生まれてきたけれど、シンデレラと同じように最高に幸せになれるのではないかと思っています」
と。自分で自分を肯定し、何でも自分で成し遂げられるという強い自信を述べていました。
 「国際障害者年」の1981年に依頼された講演の先々で、
 「私がこのような体になって生まれたのは、薬を作った会社が悪いのではななく、妊娠中にその薬を飲んだ母が悪いのでもない」
と、製薬会社や母親が根本的な原因ではないとはっきり否定し、すべて自分の罪障と受け取り、
 「私が普通の人と変わりない生活ができるようになることが有りがたい」
と話していました。御本尊様は、次女に障害を通して自分の宿業を判らせてくださいました。娘が罪障消滅と現当二世を祈れる境界になれたのが第一の喜びです。
 生まれたときから御題目を聞き唱え、私と折伏に歩いた娘は、遠く沖縄の石垣島まで一人で折伏に行ったこともあります。御書を開き、学び、御本尊様に守られ福徳に満ちた人生を送って、現在は幸せな結婚をし、三人の子供の母親として明るい家庭を築いています。親の私でも考えたこともないようなことに挑戦し、普通の人と変わりない生活をさせていただいております。私の生涯の指針は、

「湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」

                            (平成新編御書 718)
という『呵責謗法滅罪抄』の御文です。悩みの坩堝(るつぼ)にいた私は、この御文に巡り会えて「無を有に、不可能を可能に、こんなことができるのだ」と全身が感電したような衝撃を受けました。特に娘たちのことは強盛に祈り、見守り、祈った通り本人も何事も可能にし、幸せにしていただきました。

 

信心の筋目を正し 三家族で脱会

 私たち家族は創価学会に30年いましたが、平成3年の学会問題のときに脱会しました。学会ではなく日蓮正宗に入信し、本門戒壇の大御本尊様の功徳で今の境界にさせていただきました。脱会について二人の娘家族と話し合いました。
 「学会の同志の方々にはよくしていただいたことを感謝しているが、学会は信仰の対象ではない。私たちは日蓮正宗を信仰し、本門戒壇の大御本尊様から功徳を戴き守られている。大御本尊様から離れることはできない」
という娘たちの強い決意を聞き嬉しくなりました。早速私たち三家族は脱会し、法華講覚正寺支部に入講させていただきました。(中略)
 私たち夫婦は正法広布のため、近くは平成33年の80万人体制構築のために、山口地方部の一員として少しでもお役に立つべく真の師弟相対の信心に励み、御法主日如上人猊下御指南の「足腰の強い講中」をめざし、覚正寺開創50周年の折に御染筆いただきました「動けば必ず智慧が涌く」という御言葉を胸に、折伏、育成に励んでまいる所存です。

                (大白法 平成29年4月1日号7面より 抜粋)

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info