信心の目的


◆信心する以上、その本当の目的をつかまねばならない。

ある人は「悟りを得よう」として信心に入る。

これは大聖人の仏法からいえば、“オママゴト”の信心である。

禅宗の僧侶が山に籠もって月を眺めるような、そんな観念的な信心ではダメだ。

またその反対に、「商売のために信心する」という。「拝んだらいくら儲かるだろうか」と取引の信心をする。これもどうかと思う。危ない危ない。

また「病気が治るなら信心をしよう」という。確かに、命がけの真剣な信心をすれば病気は必ず治る。

しかし、病気の治癒だけが目的なら、治ればそれでおしまいになる。こういうのも危ない。これらは、信心に入るひとつの道程として、どこから入ろうと構わないが、そうした考え方から、一歩前進が必要だ。


◆どのように信心の目的をもっていくべきかというと、正しい信心によって我々が住む環境、生活を思うままに支配できるようになるということだ。

自由に思うままに振る舞って、自分のためにも、世の中のためにも、幸せに正しい道が行なえる信心をするということ。

この境界を自受用(じじゅゆう)身という。

大聖人は御書に「自受用身」と書いて「ほしいままに受け用いる身」と読まれている。自由である。自在である。思うように振る舞える。

しかも、人間としての道からも外れず、それでみんな幸せになっていくのである。


◆ところが、ここで考えねばならないことは、我々のような凡夫が思うままに振る舞っていれば、ガタガタになって家に帰れなくなる。すぐに月末の勘定が合わなくなる。たちまち家庭崩壊だ。信心決定(けつじょう)の人の振る舞いは、家を、国家を幸せにしていく。これは正しい御本尊、正しい仏法の血脈のかよって仏法の光に照らされているからである。


◆だれでも幸福は求めるが、正しい仏法を求めようとしない。

しかし大聖人は、幸せになりたければ、正しい仏法を立てなさいとおっしゃっている。これが幸福への秘訣である。正しい御本尊を拝みなさい。正しい血脈に従いなさい。これが我々の信心の在り方だ。そこに初めて、人智の及ばぬ大利益、大功徳が生じてくる。

経済・法律・政治など、すべてのものが正しい仏法によって生かされた、幸せな世界を作らねばならない。


◆昔ある法華講の婦人が、信徒の家々から役に立たなくなった端切れを集めてきて、お寺の御本尊の前を飾る打敷(うちしき)を仕立てて御供養されたことがあった。

その一つ一つの端切れは高価なものではなく、役に立たないものだったが、集まれば立派な打敷になったのである。我々も同様で、一人ひとりを見れば平凡なただの人間で、見たところ大したこともできそうにない。

ところが同じ御本尊にお題目を唱える人が、大勢お寺に集まってきて、ともに信心に励んでいくならば、思いもよらない大仏事を成ずることができるのである。


◆お寺に集まってくる信徒はちょうど「油」のようなものである。お寺の中から仏法を守る僧侶は、灯芯のようなものである。

油があって、はじめて灯芯は燃え上がり、灯芯が燃え上がることによって、はじめて信徒も利益を受けて、世の中も明るくなっていく。

このお寺から世の中に発していく光は、すなわち大御本尊の大利益である。

僧俗ともにお寺に集まり、しっかりと信心をして、お互いに功徳を得ていくのが、ご本仏・日蓮大聖人の願いである。

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info