女性の成仏は法華経に限る?!

Q. 日蓮大聖人は「女性を差別する念仏の教えは、真実の仏法ではない」と教えられていると聞きますが、それは、どうしてですか?

 

Ans.

 そもそも、「女性は、念仏を称えれば臨終の時に男性へと変化し、それから初めて極楽へ往生できて、そこでさらに修行をして、ようやく成仏できる」と、念仏では、男性と女性との成仏の姿について、大きく差別(さべつ)をしているのです。

よって、「一切の人が平等に成仏する」と説かれた法華経と比べるとき、念仏の教えは、法華経よりも、大きく劣っている(すべての人を救う力が弱い)と言えます。
 
 日本の念仏で有名な僧・法然(ほうねん)は、往生業(おうじょうごう)としての念仏は男女平等に行なわれるものであり、男でも女でも平等に往生できると説きました。

「禅勝房にしめす御詞」とうい書物に

「この世で、女性が男性に完全に変身することは、現実問題として不可能である。それと同じく、死んだからといって、無慈悲者が慈悲(じひ)深き人に、ケチな人が懐(ふところ)が深く心が広い人へ、女性が男性へと、そう簡単に変われるわけがない。だから、女性の身であっても、何も心配せずに念仏を称(とな)えれば、女性身のまま極楽(ごくらく)に往生(おうじょう)できる」(概略の趣意)(註1)。

 ※註1「念仏申す機は、むまれつぎのまゝにて申す也。さきの世の業によりて、今生の身をばうける事なれば、この世にてはえなをしあらためぬ事也。たとえば女人の男子にならばやとおもへども、生のうちには男子とならざるがごとし。智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、慳貪者は慳貪ながら申す、一切の人みなかくのごとし。さればこそ阿弥陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願をばをこしましませ」


しかし、こうした法然の教えは、要するに
 「私は阿弥陀如来が、一番すばらしい仏であると考えている。しかし、その阿弥陀が説かれる浄土のお経には、女性は、そのままでは極楽往生できないと説かれている。

 これは、すべての人を平等に救いたいと願われるはずの仏様の心とは反するものだから、この部分は、無かったことにして、私は、教えの内容を変更して、私の教えとして作り変えた」
ということを語っているようなものなのです。


 法然の流れを酌(く)む親鸞(しんらん)(浄土真宗)も、この点においては同様です。

以上をまとめると
① インドでは、もともと女性蔑視の思想があった。インド全土にそうした流れが定着していたから、釈尊も、覚りを開いた後の42年間に限っては、「女性は、そのままでは成仏できない」という差別を前提として、いろいろな教えを説かれていた。

 背景

<古来インドでは、女性蔑視の傾向があり、女性は五障があって覚りを開いた聖者にはなれないとか、浄土にはそもそも女性は存在し得ないという思想がありました。こうした思想は、インド特有の民間信仰とともに、初期の釈尊の教えにも受け継がれ、女性はいくら修行を重ねても、そのままでは救われないとされたのです。>

 

② その42年間のうちに説かれた「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」(浄土三部経)では原則として、「念仏を称えた女性は、臨終の瞬間に、男性の身へと変化(へんげ)し、それによって極楽浄土に往生(おうじょう)することが許され、さらに極楽浄土において仏道修行に励んだ後に成仏できる」とされている。

 

背景>

念仏宗の人が唱える『無量寿(むりょうじゅ)経』には、
 「阿弥陀(あみだ)の願いとして、もし女性がいて、我が名(阿弥陀の名前)を聞いて喜び、深い信仰心(しんこうしん)をもって菩提(ぼだい)を発(おこ)し、女性の身であることを恥(は)じて悔(く)やむ者が、万一、男性に変わることができずに女性のままでいるならば、私(阿弥陀仏)は正しい覚(さと)りを開くことはできないだろう」(註2)


※註2 「もしわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界にそれ女人あって、わが名字を聞いて、歓喜信楽して、菩提心を発し、女身を厭悪せんに、寿終の後また女像とならば正覚を取らじ」
とあります。



③ 法然・親鸞などの有名な念仏僧は、そのような「女性と男性を差別する、女性蔑視の教え」では、女性の受けがよくない(女性の信仰者が増えない)と考え、「女性は女性のままでも、往生できる」と、本来の浄土経には説かれていない耳障りのよい教えを作り上げて人々を欺いた。

 

背景>

念仏を信じて称(とな)える女性は、臨終(りんじゅう)の瞬間(しゅんかん)に男性の身へと変化(へんげ)する、というのです。
よって、中国浄土教の僧・善導(ぜんどう)は、この経文を解釈(かいしゃく)して
 「女性が、南無阿弥陀仏と称(とな)えれば、臨終(りんじゅう)のとき、ただちに男性へと変化することができる。すると阿弥陀(あみだ)は、その人の手をとり、菩薩方はその人の身をたすけて宝華の上に座らせ、阿弥陀(あみだ)の導(みちび)きによってその人は極楽(ごくらく)浄土に往生(おうじょう)し、覚(さと)りを開くことができる。よって、念仏を称(とな)えない女性は、臨終(りんじゅう)を迎えても男性へと変化することはできないから、極楽(ごくらく)往生(おうじょう)も絶対にできない」(註2)

※註2 『観念法門』「乃ち弥陀の本願力に由るが故に、女人、仏の名号を称すれば、正しく命終の時、即ち女身を転じて男子と成るを得。弥陀は手を接し、菩薩は身を扶けて宝華の上に坐しめ、仏に随って往生し、仏の大会に入りて無生を証悟す。

また一切の女人、もし弥陀の名願力に因らずんば、千劫万劫恒沙等の劫にも、終に女身を得ることを転ずべからず」

 

続けて
 「だから、よく知りなさい。念仏によって、どんな女性でも、男性の身に転じてから極楽へ往生することができるのであるから、たとえ、他のお経を信ずる人が、『念仏の教えでは女性は極楽浄土に往生できない』と批判することは見当違いであって、そうした批判に惑わされてはなりません」(註3)

※註3「まさに知るべし。今あるいは道俗ありて、女人、浄土に生ずることを得ずといわば、これは是れ妄説なり。信ずべからず」
と主張しています。

 

 

仏教者として一番大事なことは、その基本であるお経に忠実であるということ。その基本をねじ曲げ、都合の良い教えとして造り替えた法然、親鸞らの罪は、大変に重いんだと、日蓮大聖人は厳しく指摘されているのです)

 

あなたは
 「浄土宗、浄土真宗の教えでは、女性が往生(成仏)できないなんて話は、どこのお寺へ行っても聞いたことがありません」

と言われるかもしれません。
 しかしそれは、浄土宗や浄土真宗の僧侶が、お経に書かれている事実を、覆(おお)い隠(かく)してしまっているからです。

 

(法然、親鸞らが、書き換えた教えに、現代の僧侶たちもそのまま従っているに過ぎません)。


 そもそも、念仏の教えを説く僧侶が、「念仏では、女性は、そのままでは往生もできないし、成仏なんて、とんでもありません」などという事を、正直に説明するはずはないのです。

  彼らがもし、それを本当に理解できたとならば、ただちに念仏の教えを捨てて、お釈迦様も「真実であり、最高の教えである」と讃歎された法華経・南無妙法蓮華経という最高の仏法に帰依するに違いありません。

 日蓮大聖人は
 「浄土の三部経は…釈尊の本意に非(あら)ず、三世諸仏出世の本懐にも非(あら)ず、只暫(しばら)く衆生誘引(ゆういん)の方便(ほうべん)なり。譬へば塔をくむに足代(あししろ)をゆふが如し。念仏は足代(あししろ)なり、法華は宝塔なり。法華を説き給ふまでの方便なり。法華の塔を説き給ふて後は、念仏の足代(あししろ)をば切り捨つべきなり」(御書39)

と教えられています。この言葉の意味は、以下のとおりです。
 (浄土のお経は、お釈迦様が本当に説きたかった教えではないし、過去・現在・未来に出 現する多くの仏の本意でもありません。念仏のお経は、人々を法華経へと導くための方便なのです。たとえば、五重塔のような建物を建てる場合、まず足場(あしば)を組みます。ここで、念仏の教えは足場(あしば)であり、建てる目的の五重塔が法華経です。つまり、念仏のお経は釈尊が、最高の教えである法華経を説くために用意した手段であって、法華経という五重塔が完成したら、工事に使用した足場(あしば)は、取り払う(建物が完成していても、いつまでも、足場を残している人はいません)ように、浄土のお経は、末法では、捨てなければならないのです)
 
依法不依人(えほうふえにん)… 「法によって、人によらざれ」と読みます。

  仏教を信ずる以上、あくまでも釈尊の言葉や教えを基本とすべきであって、それ以後に出現した僧侶(人)による意見や言葉を中心に考えてはならない、という意味です。
 長い仏教史のなかで、多くの僧侶が仏教を学び、広めてきました。そうした過程で、
 「釈尊はこのように述べられているけれども、俺は、この点は違うと思う」

とか、
 「お経には、こうした行為を禁じているけれども、この程度のことなら、少しくらい行なっても、構わないのではないか」

等と、時代が下るにしたがって、多くの僧侶がお経以外に、自分の考えを混ぜ込んで、新しい教義を作ってしまうという歴史が繰り返されてきました。
 それについて日蓮大聖人は、「仏教はあくまでも、お経のとおり(釈尊の教えどおり)に信じ、行じてこそ、初めてお釈迦様も喜ばれ、またお経の功徳も顕われる」ものとされています。

 そこで、日蓮大聖人は、八万四千とも呼ばれる膨大な経々を達観し、根源の妙法を覚られた結果、釈尊が最後の遺言として残された法華経こそ、唯一最高のお経(お釈迦様の集大成)であり、釈尊も法華経によって、すべての人が平等に救われていくことを、心から望まれる旨を明示されました。
 よって日蓮大聖人は、過去の姿として、先祖代々の人々が念仏を信仰していたとしても、末法と呼ばれる現代においては、それらの旧来の宗旨を変更して、誰もが法華経・南無妙法蓮華経に帰依し、自行(じぎょう)化他(けた)に励むことによって、真に亡(な)き先祖の菩提(ぼだい)を弔うこともでき、さらには、自身や家族の現世における安穏な境界も築き上げることができるものと教えられています。
 

 【参考資料】
『念仏往生要義抄』『西宗要』二『西宗要聴書』本、『鎮西宗要宗本末口伝抄』本、『大経直談要註記』一四、『無量寿経抄』四、『翼賛』一八、『法然上人伝記』四上、六下、『法然上人伝』六、香川孝雄「仏教の女性観」(印仏研二三・二)、笠原一男『女人往生思想の系譜』。

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info