日蓮正宗 妙通寺(妙通寺・日蓮正宗でも検索可)
名古屋市中村区烏森町3丁目24番地 地下鉄東山線「岩塚駅」下車徒歩10分
「本陣駅」から車で8分
「国立戒壇」(こくりつ かいだん)について
みなさんは、冨士大石寺顕正会が主張する「国立戒壇論」について、どの程度の知識を持たれていますか?
「井の中の蛙(かわず)」では、物事の真実の姿(諸法の実相)を識ることはできません。住み慣れた場所は、居心地がいいものですが、勇気をもって一度、井戸の中から外に出て、広い世界を知ってこそ、物事の真理の一端を見いだせるというものです。
①「国立戒壇」という言葉は、日蓮大聖人は一度も使われていません(御書の中には出てこない)。ですから現在、日蓮正宗では、その言葉を使用していません。
だからといって「広布を目指す折伏精神」を捨てたわけではありません。ただ、明治時代以降、一時期使用された「国立戒壇」という言葉を使わなくなっただけのことです。
②日蓮大聖人の「霊山浄土に似たらん最勝の地を訪ねて戒壇を建立すべき者か」との御遺命に従い、日興上人は本門戒壇の大御本尊を身延から富士・大石が原(大石寺)に移されました。よって日興上人が、日蓮大聖人の御遺命に基づいて定められた、将来の戒壇建立の地は現在の大石寺のはずです。
僧宝随一の日興上人が定められたのですから、さらに他の所に「戒壇建立の地」を探し求める必要はありません。
なぜ、大聖人からその信心を讃歎された南條時光殿が日興上人に建立寄進された由緒ある大石寺を捨てて、その他の場所に移動しなければならないと言い続けるのですか?
③顕正会では「天母山(あんもやま)戒壇説」に固執する一つの理由として「大坊棟札(むなふだ)」を根拠としているようです。しかし日興上人筆とされる「大坊棟札」は、日興上人の御字ではなく、後の時代に造られたものであることが判明しています。
日興上人は大石寺とは離れた「天母山に戒壇を建立する」等ということは示されていない、ということです。
④「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」との日蓮大聖人の御遺命について、この文章をよく拝してみましょう。
この文章では、広宣流布の時に「国主」が立てるのは「此の法」であり、場所や建物を指されている訳ではないことが判ります。
つまり「日本中の民衆が折伏し尽くされ、ついに時の国主までもが大御本尊に深く帰依し、南無妙法蓮華経の仏法を深く信ずるようになる = 国主が此の法を立てるようになった」とき、「日目上人の再誕である時の御法主上人(日蓮大聖人の代理)が、本門戒壇の大御本尊を安置する本門戒壇を建立しなさい」というのが大聖人の御遺命です。
以上のような理由から、「御法主上人が建立」されるのですから、あたかも「過去の封建制度下において、天皇が建物を建設された」ように誤解されやすい「国立戒壇」との言葉は、実態に即さないことは明白です。
⑤「勅宣(ちょくせん)ならびに御教書(みぎょうしょ)」についても、現代の社会通念には適しません。「勅宣」というのは天皇陛下の宣言であり、「御教書」もまた皇室等から発せられるものを意味します。
明治以前の日本の国家形態において、時の天皇陛下が日本国の国王としての権威(けんい)をもって政治を司られていた時代なら「勅宣」や「御教書」には実用性がありました。しかし、現代のような象徴天皇制のもとで、天皇陛下が命令書を出して国家事業を行ない、国営(国立)の戒壇を建設することは100パーセント不可能です。だから日蓮正宗では、「国立戒壇」との言い方は、現状にそぐわないので、今後は使用しない、と決めただけの話なのです。
広宣流布の実現は、ひとえに一人ひとりの真剣な折伏実践にかかっていることから、今はただ、「一年に一人がひとりの折伏」を着実に実践していくことを目標に、日蓮正宗の僧俗は一致団結して、自行化他に励んでいるのです。
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